デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一

7. 廿五両を貸した猪飼翁

にじゅうごりょうをかしたいがいおう

(21)-7

 私は親類の渋沢喜作と一緒になつて、二十四歳の文久亥三年十一月の二三日頃、江戸から京都へ発足した時には「当座の入費に使ふがよい」と、父から百両の金子を貰ひ受けたものだから、内二十四五両ばかりは江戸に居る間に使つてしまつたにしろ、京都へ着いた当座はまだまだ相当に懐中が温かつたのである。然し十一月廿五日京都に着いてから、頼復次郎を尋ねるとか其他当時に名高い慷慨家を訪問するとか、或は又勤王の藩から出京して居た周旋方(当時の外交掛)に面会するとかいふことで、東奔西走したり、伊勢大廟参拝の為めに旅行したりしたので、そのうち所持金も手薄になつて来たのである。
 当時、私と喜作との止宿して居つた旅館は三条小橋脇の茶屋久四郎方で、俗に「茶久」と称ばれた高等旅館であつたのである。その頃の普通旅籠賃は一泊二百五十文位であつたところを、私共は特別に減けてもらつて猶ほ四百文で茶久に宿泊して居つたのだから、茶久が当時の高等旅館であつたことは略々察せられるだらうと思ふが、何分まだ世故に慣れぬ書生の事とて前後の勘定も無く、そんな高等旅館に止宿して居つたので経費も自づと多く懸り、翌る元治元年二月に至り、平岡円四郎の勧告を入れて一橋家へ奉公するやうになつた際には、住む家だけは御長屋を当てがはれたので別に不自由を感じなかつたが、之に住んで自炊をしようにも鍋釜を買ふ金子の無いほどに窮乏してしまつたのである。
 これでは仕様がないといふので、喜作と私と額を鳩めて相談して見たが旨い勘考も浮かば無い。結局誰からか金子を一時借れるやうにするより分別がつかなくなつたので、誰か彼かと貸してくれさうな人の名を挙げて話し合つてるうちに、一橋家の御側用人で番頭を務めて居た猪飼正為といふ人ならば二三度遇つたこともあるが、情深さうに見える人故、事情を打明けて頼み込んだら或は快く金子を貸してくれるやも知れぬといふことにより、両人にて猪飼の宅に出向き、金子の借入方を依頼に及ぶと予期の如く快諾してくれたのである。漸く其れで鍋釜を買ひ、一橋家の長屋に引移れることになつたのであるが、一度借りた丈けの金額では間に合はず、前後三回ばかり総計二十五両を借りたやうに記憶する。その頃の二十五両は之を今日の貨幣に換算すれば、二三百円にも当るので可なりの大金である。

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キーワード
廿五両, 貸す, 猪飼正為
デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)