デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
慶長三年七月、秀吉、自らの疾篤きを知るや、自分の死後能く天下を一統して其安泰を計り得るものは徳川家康を措いて他に其人無しと看て取つたものだから、早速家康を召し寄せ「天下の後事は宜しく貴卿に御任せ申上げる。又、幼子秀頼の儀も宜しく御頼み申す」と懇々家康に頼み入つたのであるが、聡明にして万事に抜目の無い家康のこととて、秀頼には淀君といふ厄介な風鈴の付いてる事情を知つてたので、直ぐに秀吉の委嘱を引受けて受諾の意を言明するやうな事をせず「不才重任に適せぬから」と称してうまく辞退してしまつた。それでも猶ほ秀吉にして飽くまで家康に後事を托したいとの決意があつて、頑として動かず、更に進んで家康に頼み込み、淀君、秀頼をも家康に引き合せ「後事は総て家康に托したから我が亡き後は家康を秀吉なりと心得、何事にも家康の命に聴けよ」と申渡して置きでもしたら、如何に秀吉の没後とても、豊臣家はあんな悲惨な末路を見ずして済んだらうと思はれる。
然るに流石の秀吉も、晩年には之れ丈けの処置に出でる決断力が無くなつてしまつてゐたので、家康に全く後事を托してしまうのも何んとなく心配なやうに思はれ、其処に愚痴が手伝つたものだから、家康が辞退したのをそのままにして、奉行五人、大老五人を置き、合議制によつて秀吉歿後の天下を差配させることにしてしまつたので、秀吉が歿くなつた後では淀君が彼是れと我意を張つて我儘を募らせ、大勢の趨く処に反抗して家康を侮蔑し、其極、賢明なる片桐且元の調停をも却け、家康に対して戈を取るやうになつたので遂に大阪の落城となり、豊臣家は徳川に滅ぼされてしまつたのである。
この詩句の意味は一日のうちでも最も大事なものは夕刻で、日中如何に快晴であつても夕刻になりかけてから雨でも降れば、その日一日が雨であつたかの如くに感じてしまはねばならぬと同じやうに、人間も晩年が晴々した立派なもので無いとつまらぬ人間になつてしまふものだ、といふにある。なほ他にも晩年の重んずべきを教へた古人の詩句がある。これは漢の高祖が那的ほどの豪い人傑でありながら、晩年に及び恰も秀吉が秀頼の事を気にして稍〻振はざるものあるに至りし如く、末子たる如意の事を心配してクヨ〳〵した腑甲斐無さを嘆じたもので、其句は「設比嗚咽思如意。烏江戦死又英雄」(もし嗚咽して如意を思ふに比すれば、烏江の戦死もまた英雄)といふのであるが、ここに「烏江の戦死」と誦んだのは項羽の事である。この詩句は「漢の高祖を英雄だ英雄だと古来言い伝へて居るが、晩年に及び末子の如意のことを心配してクヨ〳〵し、泣いたり騒いだりしたのは何んといふ態タラクだらう。あんなザマの人間をも猶ほ称して英雄といふを得べくんば、烏江を渡らずに垓下で潔よき戦死を遂げた項羽の方が英雄なりと謂ひ得るぞ」との意を謡つたもので、人に晩年の注意すべきものたるを教へた詩である。
私とても、若いうちは決して欠点の無かつたものであるとは申上げかねる、随分あつたらうと思ふ。然し、晩年だけでも他人様より余り彼是とお小言を頂戴せぬやうにして終り、嗚咽して如意を思ふといふやうな譏りなども受けず、所謂晩晴を期したいものであると心懸け、及ばずながら努力して居るつもりである。人は晩年が立派でありさへすれば、若いうちに多少の欠点失策があつても世間は之を容してもくれ、或る程度までは立派な晩年の生活によつて若い中の欠点失策を帳消しにすることもできるが、如何に若いうちが立派であつても、晩年が宜しく無いとなれば、其人は遂に芳しからぬ人で終つてしまはねばならぬものである。「天意夕陽を重んず」の真意たるや他無し、此の辺の消息裡にある。
又義公が僅かに十八歳にして史記の伯夷伝を読んで以来修史の志を起して之が実行を思ひ立ち、空前の修史事業たる大日本史の編纂に着手したことなぞも、義公に非凡の決断力が無ければ兎てもできたもので無いのである。それから藩の年寄藤井紋太夫が才に任せて将軍綱吉の御側用人柳沢吉保と心を合はせ、幕府顛覆の陰謀ありとの嫌疑起るや、之を荒立てず内々のうちに片付けてしまはうとの御趣意から、一日能楽を御催しになり、藩中の家々に令して之を参観せしめ、家人の留守になつてる後に人を遣はし、紋太夫の家宅捜索を行ひ、この陰謀に就て往復した密書数十通を押収し、証憑の顕然たるものあるを見らるるや、公は「猩々」か何かの能を舞台で舞はれて楽屋に帰らるると同時に、紋太夫を御前に召され、事に托して一刀の下に紋太夫を手討に致され、事を荒立てずに済まされたところなぞも、一に義公に明快なる決断力のあらせられたるに因ることである。この藤井紋太夫に関する事蹟は、たしか今より十六七年前、故福地桜痴居士が之を「安宅丸」と題する芝居に仕組んで団十郎の水戸黄門、先代菊五郎の紋太夫で歌舞伎座に上演されたやうに記憶するが、その時の芝居では義公が能舞を終へてから紋太夫を手討にされたやうにせず、舞台に出らるる前に紋太夫を召されると、紋太夫も御手討を覚悟し、予め陰腹を切つて楽屋の御前に出で、「仮面を持て」との仰せで之を差出すトタンに手落しし、御家重代の仮面を壊してしまつたので、義公は「不届者奴が……」と一言の下に紋太夫の首を刎ねられ、そのまま悠々猩々の装束に血刀を提げて橋懸りになるところで幕になるやうにしてあつたのである。又、晩年に及び一切の公職より隠退し、ポンと世間から離れて「小石川の老人」で暮らし、其間に諸国を巡遊したりなぞ致して国政の改善に貢献せられたところなぞも、義公に明快なる決断力のあつた事を示すものである。
それは兎も角もとして、慶喜公が大将軍の職に任ぜられてから、天下の形勢の趣くところを察知し、断乎として大政奉還に意を決し、一派の反対ありしに拘はらず飽くまで之を実行せられたのは、公に非凡の決断力が無ければできぬことであつたのである。それから、一旦、大政を奉還せられてからは一切明治の御新政に立ち触らぬことに決意せられ、薨去まで四十有余年間、一切政治に干与せられなかつたことなぞも、一見何でも無いやうではあるが、非凡の決断力ある人物に非ずんば遂行し得られぬものである。
総じて水戸義公の如き、或は徳川慶喜公の如き非凡の決断――明快なる決断力を得るやうになることは、深く安心立命を得て居るのが根柢の因になるもので、安心立命が無く又自ら確く信ずる処の無い人は什麽しても決断が鈍り、途中の乱麻を断つて邁進し得らるるもので無い。自ら「是れ」と信ずるところがあつて安心立命を得て居る人は、国家の危急に際しても狼狽せぬのみか、殊に斯る際に処して明快なる決断を行ひ、自ら是と信ずる所に向つて進み得るものである。
子曰。寗武子。邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚不可及也。【公冶長第五】
(子曰く、寗武子、邦に道あれば則ち知、邦に道無ければ則ち愚、其知や及ぶべし、其愚や及ぶべからず。)
茲に掲げた章句は、名を兪と申された衛の大夫寗武子を孔夫子が御賞めに相成つた言葉であるが、寗武子は衛の文公、成公の両王に仕へた人である。文公は有道の君主で、其時代は政治の能く治まつた時代ゆゑ寗武子は此の間に処して能く其知を揮ひ、智者を以て目せらるるを得たが、成公は遂に国を失つたほどの無道の君主で、成公の時代は道の全く頽廃した為め、寗武子は其間に立ち誠心誠意周旋する処のあつたにも拘らず、徒に小才の利く巧言令色の人物のみが用ひられ、寗武子の如きは何の役にも立たぬことに糞骨を折る愚者を以て目せらるるやうになつてしまつたのである。文公の時代の如き天下に道のある時に際して其智を揮ふことは、必ずしも敢て寗武子を煩すまでも無いが、成公の時代の如く天下が乱れて国に道の無くなつてる時に当り、兀々として容易に効果の顕れざる政治の根本問題を解決することに努力し、世間より愚者を以て目せらるるも毫も恐るる色の無いやうになるのは、寗武子の如き安心立命を確かに得て居る人で無ければできぬことである。孔夫子は之を御賞めになつたのである。(子曰く、寗武子、邦に道あれば則ち知、邦に道無ければ則ち愚、其知や及ぶべし、其愚や及ぶべからず。)
然し孟子は素より申すまでもなく、孔夫子の御弟子のうちでも、子貢、子路の如き気性の人になれば、兎ても無道の世に処し愚者を以て甘んじた寗武子を賞めるなどといふ気になれず、そんな無道の君に遇つた時には層一層馬力をかけて天下に呼号し、巧言令色の人物などは頭から叩き潰してやるやうにせねば相成らぬものだなぞと唱へることだらうと思はれる。孟子、子貢、子路のみならず日本人の気質としても、寗武子の如く、無道の世であるからとて馬鹿になり、世間より何の為すところなき愚者を以て目せられてまでも、愚者たるに甘んじて一生を送る気になれず、天下に道が無ければ無いほど益々活動して人心を警醒しようといふ考へになるは必然である。茲に、支那人気質と日本人気質との差が又顕れて居るやうに思はれる。
孔夫子が寗武子を「其愚や及ぶべからず」と御賞めになられたところには、或る意味に於て支那人気質を発揮せられたものであるとも謂ひ得られるが、如何に澆季無道の世に際会しても気を焦ら立てず飽くまで馬鹿になり澄し、俗に謂ふ縁の下の力持をして暮らすのは、一寸凡人のできることでは無いのである。日本人ならば、成公の如き時代に遭遇すれば、必ず気を腐らしてしまつて、寗武子の如く愚者になつて、縁の下で力持をしながら働く気になれぬのである。兎角、日本人には花々しく表面に立つて活動する事をのみ好み、蔭に隠れて働くのは厭やがるといふ短所がある。然し昔からも「大功無名」といふ語のあるほどで、表面に立つて花々しく活動するよりも、縁の下でする仕事によつて却つて多く天下に貢献し得らるるものである。然しかく愚者の譏りを受くるのに甘んじ、名を求めずして汲々努力する事は、真に安心立命を得て居る人で無ければ到底でき無いものである。何事よりも其の根柢となるものは安心立命である。
子曰。伯夷叔斉不念旧悪。怨是以希。【公冶長第五】
(子曰く、伯夷叔斉は旧悪を念はず、怨み是を以て稀なり。)
伯夷は兄、叔斉は弟、共に孤竹国の公子で、お互に国を譲り合ひ国を去つたほどに、両人とも義に堅い人々であつたので、周の武王が殷の紂王を討たんとするを聞くや、如何に無道の君なればとて、臣にして君を弑しては仁であるとは申されまいと、武王の出陣に際し馬を叩いて諫め、其言容れられずして遂に殷が亡びて周の天下となるや、周の粟を食ふは忍びざる処なりとて、両人とも首陽山に隠れ、彼の有名なる「我れ安くにか適帰せん、于嗟徂かん、命の衰へたる也」の歌を作つて餓死した人々である。これほどに、この両人は狷介狭量な処のあつた方々であるが、人の旧悪を思うて之を責めたり怨んだりした事は決して無く、旧悪は総て之を忘れてしまひ、何事も天なり命なりと諦め、孔夫子の論語八佾篇に所謂「成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」の流義によつて人に対せられたものである。是に於てか如何に狷介狭量でも、他人より怨まるるといふやうな事はなかつたのである。(子曰く、伯夷叔斉は旧悪を念はず、怨み是を以て稀なり。)
兎角、狷介狭量の人物には、徒に時勢を罵つたり、他人の旧悪を挙げて之を責めたりしたがる傾向のあるものだが、伯夷、叔斉には斯ういふ癖が無かつたので、孔夫子は茲に掲げた章句に於て、両人の斯の美徳を御賞めになつたのである。私は素より伯夷、叔斉ほどの徳を備へて居るわけでも無いが、他人の旧悪は一切之を忘れて思ひ浮かべぬやうに致すのみならず、旧悪を念ふ代りに旧恩を忘れず、謝恩の実を挙げるやうに力めて居る。
当時、私と喜作との止宿して居つた旅館は三条小橋脇の茶屋久四郎方で、俗に「茶久」と称ばれた高等旅館であつたのである。その頃の普通旅籠賃は一泊二百五十文位であつたところを、私共は特別に減けてもらつて猶ほ四百文で茶久に宿泊して居つたのだから、茶久が当時の高等旅館であつたことは略々察せられるだらうと思ふが、何分まだ世故に慣れぬ書生の事とて前後の勘定も無く、そんな高等旅館に止宿して居つたので経費も自づと多く懸り、翌る元治元年二月に至り、平岡円四郎の勧告を入れて一橋家へ奉公するやうになつた際には、住む家だけは御長屋を当てがはれたので別に不自由を感じなかつたが、之に住んで自炊をしようにも鍋釜を買ふ金子の無いほどに窮乏してしまつたのである。
これでは仕様がないといふので、喜作と私と額を鳩めて相談して見たが旨い勘考も浮かば無い。結局誰からか金子を一時借れるやうにするより分別がつかなくなつたので、誰か彼かと貸してくれさうな人の名を挙げて話し合つてるうちに、一橋家の御側用人で番頭を務めて居た猪飼正為といふ人ならば二三度遇つたこともあるが、情深さうに見える人故、事情を打明けて頼み込んだら或は快く金子を貸してくれるやも知れぬといふことにより、両人にて猪飼の宅に出向き、金子の借入方を依頼に及ぶと予期の如く快諾してくれたのである。漸く其れで鍋釜を買ひ、一橋家の長屋に引移れることになつたのであるが、一度借りた丈けの金額では間に合はず、前後三回ばかり総計二十五両を借りたやうに記憶する。その頃の二十五両は之を今日の貨幣に換算すれば、二三百円にも当るので可なりの大金である。
さて、喜作と私とが一橋家に仕へた時に受けた給料は、役手当が四両一分、扶持が四石二人扶持といふものであつたから、猪飼氏から借りた二十五両を返金するのにも却々骨の折れたもので、毎月一両づつ返したのであるが、そのうち私は大阪に出張することになつたりなぞし、多少の余裕をも生ずるに至り、その年内に二十五両を皆済してしまつたのである。私たちが斯く几帳面に借金を返済するのを見、猪飼氏は私たちを堅い人物だというて、非常に賞めてくれたものである。賞められるだけそれだけ私たちは苦しかつたのだが、自分で市中に買ひ出しに出かけ店頭に下げてある牛の肉を買つて帰り、之に葱を切つて入れ、一緒に自分たちで、煮て食つたりなぞして当時は其日を送つたものである。それは兎も角として、当時私たちが自炊ながらも其日を凌げるやうになれたのは、全く猪飼正為氏が私たちの窮境を憐れんで廿五両を貸して下されたお蔭によることだと思ふので、私は今日に至るまでこの旧恩を忘れず、同氏の息子さんは大蔵省に奉職して居つても、まだ至つて薄禄のこと故、御恩返へしのつもりで、及ばずながら彼是れと御力になるやうに致して居る。
猪飼氏の息子さんは大抵毎日曜日に私の宅を訪はれるが、猪飼老人も私が旧恩を忘れず些かでも御尽し申しあげるのを非常に悦ばれて居るさうで、息子さんの話によれば「おれには渋沢が付いてるから安心だ」と、甚く力んで居られ、昨年の夏病気に罹られた時なぞ、私から見舞に菓子折を差上げたのだが、「これは渋沢から己れに呉れたのだから、他の人には決して食はせぬ、己れ一人で食ふ」なぞと言はれて御自分一人で菓子折を大事にして食べられたさうである。私とても、斯ういふ話を聞けば、又満足を覚えぬでも無い。単に猪飼氏のみならず、曾つて一橋家に在られた方々に対しては、旧恩を思うて及ばずながら御世話申上げることに致して居る。
平岡円四郎氏は本所の菩提寺に葬られてあるが、一昨年遺族の方々によつて五十年忌の法事が営まれ、私も之れに招かれたので出席し、本所の御寺へも参つて御墓を拝んで来たが、長男は東京に居住し、次男は信州で裁判官を勤めて居られる。然し御両人とも少し変人であるので、私の宅を御訪ね下さることなぞは滅多に無いが、私は平岡氏より受けた旧恩を未だに忘れぬやうに致し思ひ起しては感謝して居る。
徳川慶喜公伝編纂の事は、明治廿六七年頃、故桜痴居士福地源一郎氏と会して談つた時にその端を発したもので、福地氏より此の事業を始めては何うかと話されたところより、思ひ起つたのであるが、同氏ならば旧幕の人でもあり、且つ達文家で、歴史上の造詣も深いゆゑ、編纂者として適任だらうと思ひ、穂積、阪谷の両氏とも協議の上、愈よ、福地氏に依嘱して編纂に着手する事に決したのである。ところで福地氏の意見は、単に慶喜公の伝記のみでは興味が薄くなつてしまふ恐れがあるから、幕府なるものの抑々の起源にまで溯つて記述し、ギボンの羅馬衰亡史のやうな一篇の幕末史を編述して見たいといふにあつたのだが、それでは却つて余りに浩瀚に失し、慶喜公伝編纂の本末を顛倒してしまふやうになりはせぬかとも私は考へたので、矢張、慶喜公の御伝記本位で編纂に着手する事に決めたのであるが、それにしても御伝記の前記として、せめては家康の起つたことから書かしてくれとの福地氏の注文があつたので、之れまでも断つては福地氏も嘸ぞ本意無からうと思ひ、家康公以来の幕府史を慶喜公伝の前記として附することにしたのである。
福地氏も其れで宜しいといふことで引受け、いろいろと史料を寄せ蒐め、徳川幕府時代の外交のことなぞ殊に詳しく取調べ、御朱船に関する紀料だけでも大したものであるが、氏の草稿になる幕府外交紀料は、二十冊ばかり写本になつて保存せられて居る。私が幕末の外交事情に多少通暁し、タウンセンド・ハリスのヒウスケーン殺害事件に対する所置が如何にも武士道的であつた事なぞを承知するやうになつたのも、福地氏の書かれたものを読んだ賜である。福地氏が寄せ蒐められた幕府の外交史料中には、クツクの日記だとか、其他洋人が日本に就て記述した記録なども多数に含まれて居る。
はじめ慶喜公伝の編纂を福地氏に托する際にも穂積及び阪谷の両氏に協議したのであるから、福地氏の歿後、私は編纂事業を如何に進行したら宜しいものだらうかと両氏に相談して見たのである。幕末の事情を知らうとするには、当時の事情に詳しい人々を編纂の評議役にして置かねばならぬといふので、廿人ばかりに之を依嘱して置いたのであるが、何れも老人なる為追々と鬼藉に入り、今は残り少くなつてるほど故、編纂事業の進行を急ぐ必要もあつたところから、穂積、阪谷両氏は兎に角全事業を挙げて専門の歴史家に委托してしまふのが宜しかるべく、それには文学博士の三上参次氏に更めて相談するが最捷径だらうとの意見を提出し、私も至極尤もの意見だと考へたので、穂積氏と三上氏とは至つて別懇の間柄でもある関係上、穂積氏より三上氏に通じたのであるが、三上氏は、兎も角一度私に会はうといふ事になり、穂積氏と同道で同氏が私を訪ねて下されたので、私は委細同氏と協議したのである。
三上博士の意見は折角徳川慶喜公伝を編纂して後世に遺しても、それが若し偏頗なものになつては後世の譏りを受くる恐れもあるから、旧幕の人に依嘱するよりも歴史の専攻家をして編纂事業に当らしむるが宜しかるべく、然らば博士は多忙なるを以て親しく其の衝に当る能はざるも、顧問役の格で編纂事業を監理しても苦しく無いからとて、同氏は主任者として文学博士萩野由之氏を推薦せられたのである。萩野氏は学習院教授をせられたことのある人で、史眼もあり、文筆にも長じ、誠に好適者であると思つたので、私も三上氏の意見に同意し、萩野由之氏を編纂の主任者とし、一切を挙げて編纂事業を同氏に委嘱し、三上博士も好意を以て公務の傍ら之を監理せらるることになり、編纂所を私の兜町事務所の二階に置き、規律的に編纂事業を進行するに至つたのであるが、爾来今日まで既に十年にもなる。
編纂の大方針は余り批判を加へず、材料を組織的に編纂して事実を有のままに示し、読者をして判断せしめる事にしてあるのだが、時には材料を綜合して断定を加へて置いたところもある。記述せられた部分は一々私が眼を通して読み、之に対し私の意見も申述べることにして居るが、私の幕末に於ける進退などに就ても、この慶喜公伝のうちには詳細に記録せらるることになつて居る。
慶喜公伝の編纂事業は、幕末事情に精通する古老に次々と逝かれてしまへば材料を得るに困難なわけにもなり、又私とても永遠まで生きて居られるものでも無いから、できる丈け進行を急いで来たのであるが、斯る事業は進行の遅々たるのが本来の性質であるところより、明治廿六七年の頃初めて編纂に着手して以来既に二十年にもなるが、まだ完了するまでには至つて居らぬ。然し、愈〻本年早々のうちに編纂だけは完了の運びとなる筈である。それにつけても一寸考へると、大日本史の編纂が水戸義公以来漸く近年に至つて完了するまで二百年を経過して居るのは、甚だしく長歳月を要せる如くに思はれぬでもないが、一徳川慶喜公伝の編纂にすら二十年を要するものだとすれば、大日本史の如き浩瀚なる国史の編纂完了に二百年の長歳月を要したのは当然の事で、私の慶喜公伝編纂事業に比すれば寧ろ早や過ぎるくらゐのものである。
編纂を終つても猶ほ、印刷頒布の事業が残つて居る。これを何うしたものだらうかといふのが目前の問題であるが、五六冊の分本にして発行する積りである。総紙数は菊版五号活字で少くとも五千頁ぐらゐには達するだらうと予想せられる。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)