デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一

9. 慶喜公伝も謝恩の為め

けいきこうでんもしゃおんのため

(21)-9

 私が旧主徳川慶喜公の御伝記を編纂するやうになつたのも、一に謝恩の為めである。私は素より一橋家譜代の臣でも無ければ、又その禄を食んだと申しても前後を通じて僅に五年に過ぎぬのだが、死ぬべき生命を慶喜公によつて助けられ、私の今日ある端緒は一に一橋家仕官時代に発したものと思ふので、その大恩が什麽しても忘れられず、世間に慶喜公を誤解して居る人々が多く、若しや誤つて後世に伝へらるるやうなことになりでもすれば、誠に御気の毒でもあり遺憾でもあり後世を誤ることも多からうと存じ、私が進んで慶喜公の御伝記を編纂することにしたのである。
 徳川慶喜公伝編纂の事は、明治廿六七年頃、故桜痴居士福地源一郎氏と会して談つた時にその端を発したもので、福地氏より此の事業を始めては何うかと話されたところより、思ひ起つたのであるが、同氏ならば旧幕の人でもあり、且つ達文家で、歴史上の造詣も深いゆゑ、編纂者として適任だらうと思ひ、穂積、阪谷の両氏とも協議の上、愈よ、福地氏に依嘱して編纂に着手する事に決したのである。ところで福地氏の意見は、単に慶喜公の伝記のみでは興味が薄くなつてしまふ恐れがあるから、幕府なるものの抑々の起源にまで溯つて記述し、ギボンの羅馬衰亡史のやうな一篇の幕末史を編述して見たいといふにあつたのだが、それでは却つて余りに浩瀚に失し、慶喜公伝編纂の本末を顛倒してしまふやうになりはせぬかとも私は考へたので、矢張、慶喜公の御伝記本位で編纂に着手する事に決めたのであるが、それにしても御伝記の前記として、せめては家康の起つたことから書かしてくれとの福地氏の注文があつたので、之れまでも断つては福地氏も嘸ぞ本意無からうと思ひ、家康公以来の幕府史を慶喜公伝の前記として附することにしたのである。
 福地氏も其れで宜しいといふことで引受け、いろいろと史料を寄せ蒐め、徳川幕府時代の外交のことなぞ殊に詳しく取調べ、御朱船に関する紀料だけでも大したものであるが、氏の草稿になる幕府外交紀料は、二十冊ばかり写本になつて保存せられて居る。私が幕末の外交事情に多少通暁し、タウンセンド・ハリスのヒウスケーン殺害事件に対する所置が如何にも武士道的であつた事なぞを承知するやうになつたのも、福地氏の書かれたものを読んだ賜である。福地氏が寄せ蒐められた幕府の外交史料中には、クツクの日記だとか、其他洋人が日本に就て記述した記録なども多数に含まれて居る。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)