デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一

10. 編纂所を兜町に置く

へんさんじょをかぶとちょうにおく

(21)-10

 桜痴居士はあれほどの達文家であつたが、晩年に及んでは健康甚だ優れず、流石の達文家も余り書けなくなつてしまひ、編纂は一向進行せず、唯、稿料を要求せらるるばかりになつてしまつたので、私も一時は困つた人に編纂事業を委托したものだと後悔したやうな事もあつたが、そのうち福地氏は明治三十九年一月四日六十六歳で歿してしまはれたのである。これが今より約十年前の事である。
 はじめ慶喜公伝の編纂を福地氏に托する際にも穂積及び阪谷の両氏に協議したのであるから、福地氏の歿後、私は編纂事業を如何に進行したら宜しいものだらうかと両氏に相談して見たのである。幕末の事情を知らうとするには、当時の事情に詳しい人々を編纂の評議役にして置かねばならぬといふので、廿人ばかりに之を依嘱して置いたのであるが、何れも老人なる為追々と鬼藉に入り、今は残り少くなつてるほど故、編纂事業の進行を急ぐ必要もあつたところから、穂積、阪谷両氏は兎に角全事業を挙げて専門の歴史家に委托してしまふのが宜しかるべく、それには文学博士の三上参次氏に更めて相談するが最捷径だらうとの意見を提出し、私も至極尤もの意見だと考へたので、穂積氏と三上氏とは至つて別懇の間柄でもある関係上、穂積氏より三上氏に通じたのであるが、三上氏は、兎も角一度私に会はうといふ事になり、穂積氏と同道で同氏が私を訪ねて下されたので、私は委細同氏と協議したのである。
 三上博士の意見は折角徳川慶喜公伝を編纂して後世に遺しても、それが若し偏頗なものになつては後世の譏りを受くる恐れもあるから、旧幕の人に依嘱するよりも歴史の専攻家をして編纂事業に当らしむるが宜しかるべく、然らば博士は多忙なるを以て親しく其の衝に当る能はざるも、顧問役の格で編纂事業を監理しても苦しく無いからとて、同氏は主任者として文学博士萩野由之氏を推薦せられたのである。萩野氏は学習院教授をせられたことのある人で、史眼もあり、文筆にも長じ、誠に好適者であると思つたので、私も三上氏の意見に同意し、萩野由之氏を編纂の主任者とし、一切を挙げて編纂事業を同氏に委嘱し、三上博士も好意を以て公務の傍ら之を監理せらるることになり、編纂所を私の兜町事務所の二階に置き、規律的に編纂事業を進行するに至つたのであるが、爾来今日まで既に十年にもなる。

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デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)