デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一

3. 水戸義公の決断力非凡

みとぎこうのけつだんりょくひぼん

(21)-3

 私は、歴史上の人物に就て云へば、戦国時代の人では太閤秀吉を最も決断力に富んだ人であつたと思ふのであるが、泰平の時代では、水戸義公が非凡の決断力を有せられた方であつたかのやうに思ふのである。水戸義公に就ては、曾つて「水戸の学風と徳川慶喜公」の一篇中にも詳細に述べ置いたが、御自分が上命により兄頼重を越えて水戸家を相続することになつた代りに、自分の跡は必ず兄頼重の子をして相続せしむべしと決心し、承応三年四月京都の関白近衛信尋の女を御簾中(当時諸侯の妻を斯く称す)に迎へらるるに当つても、予め此の趣を通告し置かれ、「如何に嫡出子が生れても之を我が嗣子とせず、兄頼重の家を継がしめ、兄頼重の子を養ひ、之をして我が嗣子たらしむべき筈に付、宜しく之を心得て嫁ぎ来るよう……」と申入れ、寛文元年、父頼房の薨ずるや兄頼重及び諸弟を父の霊前に会し、頼重の子松千代丸を嗣子として養ふべきを宣言し、之を実行するに至つた事なぞは非凡の決断力が無ければ、とてもできるものでは無いのである。
 又義公が僅かに十八歳にして史記の伯夷伝を読んで以来修史の志を起して之が実行を思ひ立ち、空前の修史事業たる大日本史の編纂に着手したことなぞも、義公に非凡の決断力が無ければ兎てもできたもので無いのである。それから藩の年寄藤井紋太夫が才に任せて将軍綱吉の御側用人柳沢吉保と心を合はせ、幕府顛覆の陰謀ありとの嫌疑起るや、之を荒立てず内々のうちに片付けてしまはうとの御趣意から、一日能楽を御催しになり、藩中の家々に令して之を参観せしめ、家人の留守になつてる後に人を遣はし、紋太夫の家宅捜索を行ひ、この陰謀に就て往復した密書数十通を押収し、証憑の顕然たるものあるを見らるるや、公は「猩々」か何かの能を舞台で舞はれて楽屋に帰らるると同時に、紋太夫を御前に召され、事に托して一刀の下に紋太夫を手討に致され、事を荒立てずに済まされたところなぞも、一に義公に明快なる決断力のあらせられたるに因ることである。この藤井紋太夫に関する事蹟は、たしか今より十六七年前、故福地桜痴居士が之を「安宅丸」と題する芝居に仕組んで団十郎の水戸黄門、先代菊五郎の紋太夫で歌舞伎座に上演されたやうに記憶するが、その時の芝居では義公が能舞を終へてから紋太夫を手討にされたやうにせず、舞台に出らるる前に紋太夫を召されると、紋太夫も御手討を覚悟し、予め陰腹を切つて楽屋の御前に出で、「仮面を持て」との仰せで之を差出すトタンに手落しし、御家重代の仮面を壊してしまつたので、義公は「不届者奴が……」と一言の下に紋太夫の首を刎ねられ、そのまま悠々猩々の装束に血刀を提げて橋懸りになるところで幕になるやうにしてあつたのである。又、晩年に及び一切の公職より隠退し、ポンと世間から離れて「小石川の老人」で暮らし、其間に諸国を巡遊したりなぞ致して国政の改善に貢献せられたところなぞも、義公に明快なる決断力のあつた事を示すものである。

全文ページで読む

キーワード
水戸, 徳川光圀, 決断力, 非凡
デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)