デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一

5. 日本人は愚と成り難し

にほんじんはぐとなりがたし

(21)-5

子曰。寗武子。邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚不可及也。【公冶長第五】
(子曰く、寗武子、邦に道あれば則ち知、邦に道無ければ則ち愚、其知や及ぶべし、其愚や及ぶべからず。)
 茲に掲げた章句は、名を兪と申された衛の大夫寗武子を孔夫子が御賞めに相成つた言葉であるが、寗武子は衛の文公、成公の両王に仕へた人である。文公は有道の君主で、其時代は政治の能く治まつた時代ゆゑ寗武子は此の間に処して能く其知を揮ひ、智者を以て目せらるるを得たが、成公は遂に国を失つたほどの無道の君主で、成公の時代は道の全く頽廃した為め、寗武子は其間に立ち誠心誠意周旋する処のあつたにも拘らず、徒に小才の利く巧言令色の人物のみが用ひられ、寗武子の如きは何の役にも立たぬことに糞骨を折る愚者を以て目せらるるやうになつてしまつたのである。文公の時代の如き天下に道のある時に際して其智を揮ふことは、必ずしも敢て寗武子を煩すまでも無いが、成公の時代の如く天下が乱れて国に道の無くなつてる時に当り、兀々として容易に効果の顕れざる政治の根本問題を解決することに努力し、世間より愚者を以て目せらるるも毫も恐るる色の無いやうになるのは、寗武子の如き安心立命を確かに得て居る人で無ければできぬことである。孔夫子は之を御賞めになつたのである。
 然し孟子は素より申すまでもなく、孔夫子の御弟子のうちでも、子貢、子路の如き気性の人になれば、兎ても無道の世に処し愚者を以て甘んじた寗武子を賞めるなどといふ気になれず、そんな無道の君に遇つた時には層一層馬力をかけて天下に呼号し、巧言令色の人物などは頭から叩き潰してやるやうにせねば相成らぬものだなぞと唱へることだらうと思はれる。孟子、子貢、子路のみならず日本人の気質としても、寗武子の如く、無道の世であるからとて馬鹿になり、世間より何の為すところなき愚者を以て目せられてまでも、愚者たるに甘んじて一生を送る気になれず、天下に道が無ければ無いほど益々活動して人心を警醒しようといふ考へになるは必然である。茲に、支那人気質と日本人気質との差が又顕れて居るやうに思はれる。
 孔夫子が寗武子を「其愚や及ぶべからず」と御賞めになられたところには、或る意味に於て支那人気質を発揮せられたものであるとも謂ひ得られるが、如何に澆季無道の世に際会しても気を焦ら立てず飽くまで馬鹿になり澄し、俗に謂ふ縁の下の力持をして暮らすのは、一寸凡人のできることでは無いのである。日本人ならば、成公の如き時代に遭遇すれば、必ず気を腐らしてしまつて、寗武子の如く愚者になつて、縁の下で力持をしながら働く気になれぬのである。兎角、日本人には花々しく表面に立つて活動する事をのみ好み、蔭に隠れて働くのは厭やがるといふ短所がある。然し昔からも「大功無名」といふ語のあるほどで、表面に立つて花々しく活動するよりも、縁の下でする仕事によつて却つて多く天下に貢献し得らるるものである。然しかく愚者の譏りを受くるのに甘んじ、名を求めずして汲々努力する事は、真に安心立命を得て居る人で無ければ到底でき無いものである。何事よりも其の根柢となるものは安心立命である。

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デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)