デジタル版「実験論語処世談」[55a](補遺) / 渋沢栄一

実験論語処世談 (第九十八[九十七]回)
『実業之世界』第18巻第7号(実業之世界社, 1921.07)p.54-56

子曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。【子罕第九】
(子曰く。知者は惑はず、仁者は憂へず、勇者は懼れず。)
 此の章は其の文字が示すが如く、知仁勇の徳を説かれたのであつて、知慧があれば凡てに対する理窟が分り、能く事の是非善悪を判別する事が出来るのであるから、事に処して疑ひ惑ふやうなことがない。之れ知者の徳である。仁は、屡々述ぶるが如く、論語には或場合には極めて狭く解釈し、或場合には非常に広義に説いて居る。即ち或場合には人を愛する情であるとか、他人の難儀を救ふ行為を以て仁となして居るけれども、之を大にしては、能く天下国家を治め、万民をして不平なく、不安なく各々其の業に安んぜしむるを以て仁の極致であるといつてゐる。されば仁者は物質的方面から言へば、悉く幸福であるといふ事は出来ないけれども、精神的方面から之れを見れば、仁者は能く天命を知り、一点の私心がなく己れの分を尽し、人としての尽す可き道理を弁へて之れを行うて居るのであるから、従て煩悶がなく、総ての物事に対して憂ひといふものがない。何時でも心の中は光風霽月洋々たる春の海の如き気分である。之れは如何に巨万の富を積むとしても到底金で購ふ事の出来るものではなく、偏に仁者に備はれる徳である。又た、勇者は、其の心が道義に適ひ常に虚心平気であるから如何なる事に対しても懼るゝ事がない、此の三徳が備つて居つたならば、人間としては極めて完成された異常の人と言ふ事が出来る。換言すれば、人としての典型である。古来、知仁勇の三徳といふのも、此の孔子の教へから出たのであつて、吾々は完成の域に達する事は出来ない迄も、どうかして此の三徳を備へるやうに努めて止まざるの精神を持つ可きである。
 凡て人間といふものは、知や有ばかりでは不可ぬ。知慧のある人勇気のある人、素より結構ではあるが、知、勇は性格上の一部分であつて、之れを以て完き人といふ事は出来ない[。]仁と兼ね備へて始めて人間としての価値があるのである。つまり、仁が其の根本なのであるが、現代の人々の中には自ら仁徳を備へて憂ふることのない人も居るけれどもかういふ人には知、勇が欠けてゐる。尤も、古来の幾多の英雄、豪傑、偉人の性行を調べて見ても、完全に知仁勇の三徳を備へた人といふのは殆んどない。多くは一方に偏して智があると仁に欠けて居るとか、仁があると勇がないとか、勇があるけれども智が足りないとか、兎角此の三徳の能く兼ね備つた人といふものは尠い。中には、智があるけれども、所謂悪賢いとか勇があるけれども、夫れは蛮勇に過ぎるといふ人もある。
 然らば、如何なる人が知仁勇兼備の人であるかといふに、現代に於ても、其の権衡はとれてゐないにしても先づ三徳を備へてゐると言ひ得る人が幾分はあるに相違ないが、差当つて此人ならば亀鑑とするに足ると推称するやうな人は見当らない。私の見る処では、アメリカ独立の初代大統領ワシントンなどは、先づ三徳兼備の人と言ひ得よう。又た我国に之を求むれば、多少の欠点はあつたけれども、徳川家康などは比較的此の徳を備へて居つた人のやうに思ふ。彼のナポレオン[、]ペートル、アレキサンダーの如き、何れも非凡卓越の英傑であつたには相違ないが、悉く一方に偏して居つた事は拒まれない。英雄とか豪傑の歴史を繰つて見ると如何にも華々しい処があるけれども、知仁勇の秤にかけて見ると、其の大部分は偏重してゐるのを認める。されば夫等の人々の全部を無条件で推称する事は出来ないと思ふ。
 之を我国近代に求むれば、甚だ畏れ多い話ではあるが、明治大帝が能く知仁勇の三徳を兼備せられて居つたやうに拝察する。大帝は、特別に学問が深くあらせられた訳ではないが、非常な知者であつて聡明に渡らせられ、能く人材を登用されて、適材を適所に用ひられた。又、大事に臨んで惑はず懼れず、快刀乱麻を断つが如くに決断遊ばさるゝ点などは実に御見あげ申す程であつた。其の仁愛の深くあらせられた事に就ては、余りに顕著な事実であり、且つ国民の脳裏に深く印せられて居る処であるから、今更言ふ迄もない。実に明治大帝の如きは、近代に於ける知、仁、勇三徳兼備の好典型と申し上ぐべきである。明治維新以来、我国が長足の進歩発展を来して今日の盛運を致したるは、賢明なる輔弼の臣と忠良なる臣民の力に負ふ処あるは勿論であるが、帰する所、此の英主ありしが為めに外ならぬ。
 又た、明治大帝輔弼の重任に在りし三条、木戸、岩倉の諸氏を始め、後に至つては伊藤、大隈其他の諸氏も亦何れも偉いには違ひがないが、各々一長一短があつて、未だ三徳兼備の人といふ事は出来ない。現今も、偉い人は相当に居るやうであるが、さて知仁勇を兼ね備へた人といへば、仲々見当らない如である。
子曰。可与共学。未可与適道。可与適道。未可与立。可与立。未可与権。【子罕第九】
(子曰く、与に学ぶ可し、未だ与に道を適く可らず、与に道を適く可し、未だ与に立つ可らず、与に立つ可し。未だ与に権す可らず。)
 此の章は、共に事を権るに足る人の尠い事を述べられたのであつて、即ち、「未だ与に権すべからず」に最も重きを置いてある。道に正道と権道とがある。正道といふのは所謂真直な道、王道の事であつて之を経といひ、権道といふのは別に之れを権変権術などともいひ、機に処しての道である。譬へば「男女七歳にして席を同うせず」といふ訓へは正道であるが、孟子の「嫂の水に溺れた時、之を援くるに手を以てする」といふが如きは、所謂権道である。要するに、経といひ、権といふも共に道を形容して言ひ現はしたのであつて、本来の道といふのは、常に宜く又た変に宜いものである事は言ふ迄もないのである。
 そこで孔子は「与に学問する人がある。されど未だ共に道を適く人は無い。又与に道を適く人はあつても、卓然と立ち、外物の為めに奪はれぬ人は無い。イヤ卓然と立つ人も有らうが、更に進んで能く事の軽重を権り、義に合し変に通ずるの人は無い」と説かれたのであるが、全く真に事を共にしようとする立派な人は何時の世にも極めて尠いのであるけれども殊に物質文明にのみ偏せる現代に於て此の歎を深うせざるを得ない。
唐棣之華。偏其反而。豈不爾思。室是遠而。子曰。未之思也。夫何遠之有。【子罕第九】
(唐棣の華、偏して其れ反へる。豈爾を思はざらんや。室是れ遠ければなり。子曰く、未だ之を思はざるなり、夫れ何の遠き事か之れ有らん。)
「唐棣之華――室是遠而」までは男女の間の情を述べたる古い詩であつて「唐棣の華(本邦のニハウメ)はひら〳〵と枝を離れて散つた。以前は二人は同居して居つたのであるが、今は居る所が隔つた為めに疎遠になつてゐる。然しお前を慕ふ情には変りはない、けれども、今は隔つて居るから思ひが及ばぬのである」といふ意味であるが、或人が之を引例して、道に学ぶ事を欲しないのではないけれども、遠くして学び難いとの意を述べた。それで孔子は之を諭して「夫れは未だ道を学ばん事を思はぬのである。道は人の日常履み行ふ可きの道であつて、近く目前に在る。之れを思へば直ちに学ぶを得る。何の遠いことがあらうぞ」と言はれたのである。
 今の世にはかうした心持の人が多いのであるから、大に孔子の言に顧る所あらねばならぬ。
付記 子罕篇は之れで終る。次の郷党篇は孔子平日の言行挙動を門人が詳記したものであつて、夫子の修身上に就ての一般を示したものであるが学者の講義には必要であるけれども、現代には余り必要がない故、之を省く事と致しました。
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第7号(実業之世界社, 1921.07)p.54-56
底本の記事タイトル:実験論語処世談 (第九十八回) / 子爵渋沢栄一