デジタル版「実験論語処世談」[55a](補遺) / 渋沢栄一

4. 与に権るに足るの人尠し

ともにはかるにたるのひとすくなし

[55a]-4

子曰。可与共学。未可与適道。可与適道。未可与立。可与立。未可与権。【子罕第九】
(子曰く、与に学ぶ可し、未だ与に道を適く可らず、与に道を適く可し、未だ与に立つ可らず、与に立つ可し。未だ与に権す可らず。)
 此の章は、共に事を権るに足る人の尠い事を述べられたのであつて、即ち、「未だ与に権すべからず」に最も重きを置いてある。道に正道と権道とがある。正道といふのは所謂真直な道、王道の事であつて之を経といひ、権道といふのは別に之れを権変権術などともいひ、機に処しての道である。譬へば「男女七歳にして席を同うせず」といふ訓へは正道であるが、孟子の「嫂の水に溺れた時、之を援くるに手を以てする」といふが如きは、所謂権道である。要するに、経といひ、権といふも共に道を形容して言ひ現はしたのであつて、本来の道といふのは、常に宜く又た変に宜いものである事は言ふ迄もないのである。
 そこで孔子は「与に学問する人がある。されど未だ共に道を適く人は無い。又与に道を適く人はあつても、卓然と立ち、外物の為めに奪はれぬ人は無い。イヤ卓然と立つ人も有らうが、更に進んで能く事の軽重を権り、義に合し変に通ずるの人は無い」と説かれたのであるが、全く真に事を共にしようとする立派な人は何時の世にも極めて尠いのであるけれども殊に物質文明にのみ偏せる現代に於て此の歎を深うせざるを得ない。

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デジタル版「実験論語処世談」[55a](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第7号(実業之世界社, 1921.07)p.54-56
底本の記事タイトル:実験論語処世談 (第九十八回) / 子爵渋沢栄一