デジタル版「実験論語処世談」[55a](補遺) / 渋沢栄一
1. 知仁勇の三つの徳
ちじんゆうのみっつのとく
[55a]-1
子曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。【子罕第九】
(子曰く。知者は惑はず、仁者は憂へず、勇者は懼れず。)
此の章は其の文字が示すが如く、知仁勇の徳を説かれたのであつて、知慧があれば凡てに対する理窟が分り、能く事の是非善悪を判別する事が出来るのであるから、事に処して疑ひ惑ふやうなことがない。之れ知者の徳である。仁は、屡々述ぶるが如く、論語には或場合には極めて狭く解釈し、或場合には非常に広義に説いて居る。即ち或場合には人を愛する情であるとか、他人の難儀を救ふ行為を以て仁となして居るけれども、之を大にしては、能く天下国家を治め、万民をして不平なく、不安なく各々其の業に安んぜしむるを以て仁の極致であるといつてゐる。されば仁者は物質的方面から言へば、悉く幸福であるといふ事は出来ないけれども、精神的方面から之れを見れば、仁者は能く天命を知り、一点の私心がなく己れの分を尽し、人としての尽す可き道理を弁へて之れを行うて居るのであるから、従て煩悶がなく、総ての物事に対して憂ひといふものがない。何時でも心の中は光風霽月洋々たる春の海の如き気分である。之れは如何に巨万の富を積むとしても到底金で購ふ事の出来るものではなく、偏に仁者に備はれる徳である。又た、勇者は、其の心が道義に適ひ常に虚心平気であるから如何なる事に対しても懼るゝ事がない、此の三徳が備つて居つたならば、人間としては極めて完成された異常の人と言ふ事が出来る。換言すれば、人としての典型である。古来、知仁勇の三徳といふのも、此の孔子の教へから出たのであつて、吾々は完成の域に達する事は出来ない迄も、どうかして此の三徳を備へるやうに努めて止まざるの精神を持つ可きである。(子曰く。知者は惑はず、仁者は憂へず、勇者は懼れず。)
- デジタル版「実験論語処世談」[55a](補遺) / 渋沢栄一
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底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第7号(実業之世界社, 1921.07)p.54-56
底本の記事タイトル:実験論語処世談 (第九十八回) / 子爵渋沢栄一