デジタル版「実験論語処世談」[55a](補遺) / 渋沢栄一

5. 道は吾等の目前に在り

みちはわれらのもくぜんにあり

[55a]-5

唐棣之華。偏其反而。豈不爾思。室是遠而。子曰。未之思也。夫何遠之有。【子罕第九】
(唐棣の華、偏して其れ反へる。豈爾を思はざらんや。室是れ遠ければなり。子曰く、未だ之を思はざるなり、夫れ何の遠き事か之れ有らん。)
「唐棣之華――室是遠而」までは男女の間の情を述べたる古い詩であつて「唐棣の華(本邦のニハウメ)はひら〳〵と枝を離れて散つた。以前は二人は同居して居つたのであるが、今は居る所が隔つた為めに疎遠になつてゐる。然しお前を慕ふ情には変りはない、けれども、今は隔つて居るから思ひが及ばぬのである」といふ意味であるが、或人が之を引例して、道に学ぶ事を欲しないのではないけれども、遠くして学び難いとの意を述べた。それで孔子は之を諭して「夫れは未だ道を学ばん事を思はぬのである。道は人の日常履み行ふ可きの道であつて、近く目前に在る。之れを思へば直ちに学ぶを得る。何の遠いことがあらうぞ」と言はれたのである。
 今の世にはかうした心持の人が多いのであるから、大に孔子の言に顧る所あらねばならぬ。
付記 子罕篇は之れで終る。次の郷党篇は孔子平日の言行挙動を門人が詳記したものであつて、夫子の修身上に就ての一般を示したものであるが学者の講義には必要であるけれども、現代には余り必要がない故、之を省く事と致しました。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」[55a](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第7号(実業之世界社, 1921.07)p.54-56
底本の記事タイトル:実験論語処世談 (第九十八回) / 子爵渋沢栄一