デジタル版「実験論語処世談」(53) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.433-435

子曰。譬如為山。未成一簣止。吾止也。譬如平地。雖覆一簣。進吾往也。【子罕第九】
(子曰く。譬へば山を為《つく》るが如く。未だ一簣を成さずして止むは、吾が止む也。譬へば地を平ぐるが如し。一簣を覆すと雖も、進むは吾が往く也。)
 此の章は、孔子が或る譬へを引いて人の学問を修め、徳を養ひ、身を成す事を説かれたのであつて「九仭の功を一簣に虧く」といふ事は能く人の言ふ処であるが、世の中には、恁う謂ふ人が多いのであるから、即ち之れを戒められたのである。之れは難かしく解釈する迄もなく、一旦樹てた目的、或は方針に対しては決して途中で挫折する様な事なく、飽迄も完全に貫く様に努むるのが真実の道である。又、斯くすべきものである。が、兎角薄志弱行の人には九仭の功を一簣にかく事が有り勝である。斯くては何事も成し遂げられるものではない。且つ多くは生存競争場裡の劣敗者たるを免かれぬのであるから、其の進むべき途に対しては、側目も振らず勉め励まなければならぬといふ意味である。但し一旦樹てた目的を途中で替へても、これが善い方に替へたのであれば「一簣を成さずして止む」のでなく、所謂進歩であるから、後段の「一簣を覆すと雖も、進むは吾が往くなり」と見るべきである。自身の事を申すのも烏滸がましいが、私は早くから自分の考へた事は是非成し遂げたいと思つて勉めてゐる。果して成し遂げられるかどうか、之れは分らないけれども、自分では青年時代から此の方針の下に勉めて来たのであつて、又現に努めつつある。
 私が野依君と初めて会つたのは確か明治四十年頃であつたと思ふ。其頃野依君は、私が各会社の事業に関係して居るのは良くない事であるというて、或る所で頻りに譏つたといふ事を服部金太郎君が聞かれて「私は渋沢を能く知つて居るが、慾張りの為めに沢山の事業に関係してゐると思うて渋沢を誹謗するのは間違つてゐる。渋沢は決してそんな人間ではない」と野依君に言つた処が、野依君は「人間の能力には限りがあるから、一人一役が最もよい。それを一人で何んの仕事でも引受けて、二十も三十もの会社に関係し、力以上の仕事をするのは間違つてゐる」と言つたさうである。それで服部君は「兎も角一度渋沢に会つて、どんな人物だか確かめて見るが宜からう」といつて分れたといふ事であつた。
 其後服部君と会つた時、此の事を語つて、「一度野依に会つて見たらどうか?」いふ話があつたから「先方で会ふ気なら会つてもよい」と返事をした。かういふ順序で、服部君の紹介で初めて会見したが、其際、野依君の以前と同様な質問を受けたに対し、私は恁ういふ風に答へたと記憶する。
 私の実業界に立つたのは、決して自分の富を殖さうとか、大に栄達しようとかいふ為めではない。己惚の申分かも知れぬが、自分の考へでは、日本も諸外国と交際を結び通商を開始する以上は、到底維新前の様な有様では駄目である。是非一新しなければならぬ。私は此の目的の為めに身を実業界に投じたのであつて、栄達や富といふ事は少しも念頭になかつた。それで株式組織の合本法をやつて、明治六年第一銀行を創立したのである。申す迄もなく仕事をするには信用は勿論であるが、相当の資力がなければ出来ない。されば良い株を買ひ、相当の給料も貰ひ、事実に於て財産は減るよりも増して来るが、然し之は本目的ではない。又一人一役といふがそれは時と場合の問題である。
 例へば、新開地に新しく商売を始めると仮定すれば、最初は分業的に出来るものでない。呉服太物類も置かなければならぬし、其他種々の日用品なども商はねばならぬ。之れは止むを得ない事である。日本の実業界は未だ初歩であるから、恰かも新開地と同様である。それで商業、運輸、保険、工業――工業にしても絹糸、紡績、麻糸其他種々あるが――之等の諸事業に関係して居るのであるが、但し之には時機があるので私は適当の時機を待つのである。それから給料のみでは今日の産を成す筈はないといはれるが、例へば十万円で或る有望な株を買つても、其の時機が来れば二十万円か三十万円位になる。産を殖すのは目的ではないが、事業の関係上、相当の資金が必要であり、斯かる経路で自然多少の財産が出来たのであるけれども、それは断じて目的ではない。兎に角、私の言ふ事が真実か真実でないか、それは私の今後の行動を見られると最も明瞭である。
 以上は当時野依君に答へた談話の骨子であるが、私は其の青年時代に於てどうしても日本を発達せしむるには、古い階級制度、即ち封建制度を変更して、真の知識に依つて成り立つ世の中にしなければならぬといふ処から、一時は同志と共に幕府を倒さうと奔走した事もあるが、欧米を漫遊後、我が国の物質界、即ち実業界の欠陥が頗る多く、之れが発達を図る事の急務なるを覚り、政治界に対する考へを捨てて一時身を実業界に投じたのである。然るに、幸ひに第一銀行は、漸次発達を遂げて、多数の株式より或る模範的の株式会社と言へる様になり、良い後継者も得られたし、其他の諸会社も悉くとは言はぬが、大体に於て道理正しい進歩を遂げたので、私は此の時機に於て後顧の憂ひなく実業界を隠退するに至つたのである。
 自分の事を申すと、或は自慢らしく思はれるかも知れませぬが、大体以上の様な訳で、己惚れではないが、自分は九仭の功を一簣にかかぬ積りである。而して孔子の此の章の訓へを遣り遂げたやうな心持がする。
 併し、私は実業界を隠退はしたけれども、決して無為にして余生を送らうとは思はない。それで今日でも及ばずながら社会公共の為めに微力を尽して居る次第であるが、天命を完うする迄は、国家社会の為めに自分の出来るだけの努力をしようと心掛けて居るのであります。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.433-435
底本の記事タイトル:三一五 竜門雑誌 第三九六号 大正一〇年五月 : 実験論語処世談(第五十二《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第396号(竜門社, 1921.05)
初出誌:『実業之世界』第18巻第4号(実業之世界社, 1921.04)