デジタル版「実験論語処世談」(53) / 渋沢栄一

1. 薄志弱行を戒しむ

はくしじゃくこうをいましむ

(53)-1

子曰。譬如為山。未成一簣止。吾止也。譬如平地。雖覆一簣。進吾往也。【子罕第九】
(子曰く。譬へば山を為《つく》るが如く。未だ一簣を成さずして止むは、吾が止む也。譬へば地を平ぐるが如し。一簣を覆すと雖も、進むは吾が往く也。)
 此の章は、孔子が或る譬へを引いて人の学問を修め、徳を養ひ、身を成す事を説かれたのであつて「九仭の功を一簣に虧く」といふ事は能く人の言ふ処であるが、世の中には、恁う謂ふ人が多いのであるから、即ち之れを戒められたのである。之れは難かしく解釈する迄もなく、一旦樹てた目的、或は方針に対しては決して途中で挫折する様な事なく、飽迄も完全に貫く様に努むるのが真実の道である。又、斯くすべきものである。が、兎角薄志弱行の人には九仭の功を一簣にかく事が有り勝である。斯くては何事も成し遂げられるものではない。且つ多くは生存競争場裡の劣敗者たるを免かれぬのであるから、其の進むべき途に対しては、側目も振らず勉め励まなければならぬといふ意味である。但し一旦樹てた目的を途中で替へても、これが善い方に替へたのであれば「一簣を成さずして止む」のでなく、所謂進歩であるから、後段の「一簣を覆すと雖も、進むは吾が往くなり」と見るべきである。自身の事を申すのも烏滸がましいが、私は早くから自分の考へた事は是非成し遂げたいと思つて勉めてゐる。果して成し遂げられるかどうか、之れは分らないけれども、自分では青年時代から此の方針の下に勉めて来たのであつて、又現に努めつつある。
 私が野依君と初めて会つたのは確か明治四十年頃であつたと思ふ。其頃野依君は、私が各会社の事業に関係して居るのは良くない事であるというて、或る所で頻りに譏つたといふ事を服部金太郎君が聞かれて「私は渋沢を能く知つて居るが、慾張りの為めに沢山の事業に関係してゐると思うて渋沢を誹謗するのは間違つてゐる。渋沢は決してそんな人間ではない」と野依君に言つた処が、野依君は「人間の能力には限りがあるから、一人一役が最もよい。それを一人で何んの仕事でも引受けて、二十も三十もの会社に関係し、力以上の仕事をするのは間違つてゐる」と言つたさうである。それで服部君は「兎も角一度渋沢に会つて、どんな人物だか確かめて見るが宜からう」といつて分れたといふ事であつた。
 其後服部君と会つた時、此の事を語つて、「一度野依に会つて見たらどうか?」いふ話があつたから「先方で会ふ気なら会つてもよい」と返事をした。かういふ順序で、服部君の紹介で初めて会見したが、其際、野依君の以前と同様な質問を受けたに対し、私は恁ういふ風に答へたと記憶する。

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デジタル版「実験論語処世談」(53) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.433-435
底本の記事タイトル:三一五 竜門雑誌 第三九六号 大正一〇年五月 : 実験論語処世談(第五十二《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第396号(竜門社, 1921.05)
初出誌:『実業之世界』第18巻第4号(実業之世界社, 1921.04)