デジタル版「実験論語処世談」(53) / 渋沢栄一

3. 予が実業界隠退の時機

よがじつぎょうかいいんたいのじき

(53)-3

 以上は当時野依君に答へた談話の骨子であるが、私は其の青年時代に於てどうしても日本を発達せしむるには、古い階級制度、即ち封建制度を変更して、真の知識に依つて成り立つ世の中にしなければならぬといふ処から、一時は同志と共に幕府を倒さうと奔走した事もあるが、欧米を漫遊後、我が国の物質界、即ち実業界の欠陥が頗る多く、之れが発達を図る事の急務なるを覚り、政治界に対する考へを捨てて一時身を実業界に投じたのである。然るに、幸ひに第一銀行は、漸次発達を遂げて、多数の株式より或る模範的の株式会社と言へる様になり、良い後継者も得られたし、其他の諸会社も悉くとは言はぬが、大体に於て道理正しい進歩を遂げたので、私は此の時機に於て後顧の憂ひなく実業界を隠退するに至つたのである。
 自分の事を申すと、或は自慢らしく思はれるかも知れませぬが、大体以上の様な訳で、己惚れではないが、自分は九仭の功を一簣にかかぬ積りである。而して孔子の此の章の訓へを遣り遂げたやうな心持がする。
 併し、私は実業界を隠退はしたけれども、決して無為にして余生を送らうとは思はない。それで今日でも及ばずながら社会公共の為めに微力を尽して居る次第であるが、天命を完うする迄は、国家社会の為めに自分の出来るだけの努力をしようと心掛けて居るのであります。

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キーワード
渋沢栄一, 実業界, 隠退, 時機
デジタル版「実験論語処世談」(53) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.433-435
底本の記事タイトル:三一五 竜門雑誌 第三九六号 大正一〇年五月 : 実験論語処世談(第五十二《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第396号(竜門社, 1921.05)
初出誌:『実業之世界』第18巻第4号(実業之世界社, 1921.04)