デジタル版「実験論語処世談」(40) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.301-309

 同じく多人数の寄り集つた場所で講話をするにしても、聴いてくれてる人々にそれが感応すると否とで、自分の談話の実の入り方も自然違つてくるものだ。迚ても渋沢は出席せぬだらうと思つてる処へ私が忽然現れて演説でもすれば、会衆が意外に之を歓んで、つまらぬ私の意見でも熱心に聞いてくれるやうな場合なぞもある。そんな時には私も亦意外に話勢が弾んで、長談義になるやうな事が無いでも無い。最近に於て、米屋の総会で私が演説したときなんかは、自分ながらも不思議に気が進んで、思はず熱心になつたかのやうに思ふ。畢竟集つた米屋さん達が、私の演説に感応してくれたからであらう。会衆の感応すると否とは、談話をして居るうちに、妙に其れと感知して来るものだ。
 私は仏蘭西から帰つて来て実業で身を立てようとした時から、日本で一番大切な物産は米と生糸とであると考へ、同姓の喜作が実業に就かうとする際にも之に勧めて糸屋と米屋を開店さした次第は既に談話したうちにも述べて置いた通りであるが、喜作の子の義一は横浜に糸屋を持つてると同時に、今日でも東京の深川に廻米問屋を経営して居る。同所の渋沢商店が乃ち其れだ。こんな関係から、年々開会せらるる全国の米屋を網羅する総会を本年は私の王子の邸内で開くやうにしたら何うだらうとの議が起り、私も之に同意したので、本年の総会は私の王子の邸内で開かるる事になつたのである。私は会場の主人であるからといふので一席の談話をするやうにと頼まれ演説したのだが、全国から集つた米屋さんの数は千三百人ほどもあつたらう。皆能く熱心に面白がつて聞いてくれたもんだから、私もつひ乗地になつて話したのであるが、中には越後から来た人なぞもあつたものと見え、六月上旬(大正七年)北越地方を巡遊した際に遇つた人で、「どうも米屋の総会で御演説に成つたうちの、国民の辞職だけはできぬとの御話は大変面白く拝聴しました」なんかと言つてくれた者もある。
 米屋の大会で私が演説した趣旨は、大要斯うであつた。
 私は七十七歳の喜の字祝ひの年齢を迎ふると共に、自己の生産殖利事業とは一切の関係を絶ち、実業界から全然引退してしまつたが、それでも国民を辞職して陛下に対する義務から逃れるわけには行かぬのである。恰度それと同じやうに、如何に生産殖利の事業を離れたからとて、私も日本国民の一人として生きて行かねばならぬ以上は、どうしても米を食はねばならぬのだ。生産殖利の事業と一切縁を断つてしまつたから米は明日から食はぬといふわけに行かぬのである。私のみならず、苟も日本人で米を食はぬといふ者は唯の一人も無い。随つて米屋商売は日本で最も重要な家業であると同時に又貴い商売である。然るにこれほど日本で重要な商売でありながら、今度の戦争で其処にも此処にもうようよと成金が出来、鉄成金、船成金なぞの多く現出せるにも拘らず、米屋で成金になつた者はまづ以て一人も無いと称して不可無しだ。私は元来成金を好まず、自分も成金とならず又成金にならうともし無いのであるから、米屋に今度の戦争で成金になつたものの無いといふ事は、頗る愉快に感ずる処である。――まづ冒頭に斯う話して置いて、それから「古文真宝」にある唐の唐子西の「古硯銘」の文を引照し、更に談話を進めたのである。
 ――硯と墨と筆とは用途を等しうするもので、同じく書画を認めるに用ひられ、硯のある処には墨あり墨の在る処には必ず又筆がある。然し、その寿命に至つては三者各〻其の期を異にし、硯は年を以て寿命とするほどで、幾年経つても殆ど同じだが、墨は摺つて使ふうちには減つてしまつて影も形も無くなり、唐子西の語を以てすれば、その寿命は月を以て計らねばならぬものである。筆に至つては一層寿命が短く、五六日も激しく使へば既う寿命が切れて使用に堪へ得られず、棄ててしまはねばなら無くなる。かく、硯と墨と筆との間に寿命の相違を生ずるのは、筆は最も多く動くもので、墨之に次ぎ、硯は殆ど動かぬものであるからだ。兎角動くものは寿命が短く、動かぬものは寿命が長いのが法である。さればとて、何んでも動きさへせねば寿命は長いかといふに、爾うでも無い。仮令へば筆を動かさずに之を其儘臥かして置いたからとて、迚ても万年の寿命を保ち得らるる望無く、そのうち虫が食つて猶且使へなくなり寿命を喪つてしまふに至るが如き乃ち其の一例である。蓋し、筆は動を以て其用の体とするに拘らず、之を動かさずに其儘静かにして置くからだ。硯は動かさずに置くので寿命の長いものであるには相違無いが、よしや之を動かしたからとて爾んなに早く磨滅してしまふものでも無い。蓋し硯は静を以て其用の体とするからである。
 総て何物に就ても其用の体に従つて之を用ひ、其用途を過らぬやうにするのは頗る大事なことで、適材を適所に配し、其処を得せしむるといふのも、畢竟するにこの意の外に出でぬのである。硯は静を以て其用の体とするが故に、これを静かにして置けば其存在の意義を全うして寿命長く、筆は動を以て其用の体とするが故に、之を動かして頻繁に使へば、寿命は短いが茲に其存在の意義を全うし得らるるのだ。世間の数多い職業のうちにも、亦硯の如く静を以て其用体とするものもあれば、筆の如く動を以て其用体とするものもあり、又、硯と筆との中間に位する墨の如き用体のものもある。米屋は之を譬ふれば唐子西の「古硯銘」にある硯の如きもので、静を以て其体とし、動きの少ない商売である。動かぬ商売である丈けに、又、利が薄く、今度の戦争があつても船や鉄のやうに激しい変動は米価の上に来らず、随つて米屋で成金になつたものは殆ど一人も無いのだ。然し、かく米価は変動の少いものである丈けに、又、米屋で躓いて破産する者なんか至つて稀である。孰れかと言へば米屋は頗る安全な商売だ。危険が少い。米屋を商売にする者は、斯く危険の少いのに満足し、如何に利益が薄いからとて之に不平を懐かず、悦んで其家業に励精し、之で日本国民の生命を繫いで行くのだとの大抱負の下に、如何にすれば米価を安くするを得べきかを考慮し、農作法の改良、取引法の改善等に意を注ぎ一所懸命業務に励むべきである。市価に変動多く、動を以て其性質とする如き商売は、利益の多い代りに又、危険も多く、誰でも行れるといふ商売では無い。寧ろ、米屋商売の安全なるに如かずである。――斯う私が演説したのであるが、それが幸ひにも来会者の気に入つて大にウケたのは、私の頗る愉快とする処である。
 それに就て思ひ起したのは、昨今喧しい米価問題だ。これは私が米屋の総会でした演説とは全く何の関係も無い事だが、仲小路農相の如く、政府の干渉によつて果して米価を引き下げ得らるるものか如何かは随分問題であらうと私は思ふのだ。世の中といふものは何に限らず絶えず動いて居るもので、寸時たりとも静かにして止つてるものは無い。上りもすれば下りもする。物価に絶えず変動の生ずるのも、世の中が絶えず動いて居るより来る事である。世の中にある総ての物が動き、随つて物価の動くのが天則であるのに、独り米価をのみ人力によつて動かぬやうにしようとしても、それは到底できるもので無い。
 米価が下落した――これでは農民も地主も困るからとて、釣上げ策やら調節策に苦心して切りに騒ぐ。さう斯うして居るうちに、今度は米価が反対に昂騰して高くなる――これでは一般が生活難に追はれるからとて、米価の引下げ策を講ずる。これは恰度一人の医者が一方の袂に緩下剤を入れ、他方の袂に固腸剤を入れて置き、糞便が結するからと患者が言へば一方の袂の中にある緩下剤を出して之を服ませ、それを服んだ為に下痢すると言へば今度は他の袂の中にある固腸剤を出して服ませ、それで又結するやうになつて困ると言へば、又前の緩下剤を出して服ませるといふのと同じで、斯う人の身体を玩具の如くにイヂリ散らせば、遂には丈夫な身体までも之を不健康の病体にしてしまふ恐れがあるやうに、政府の無理な干渉は却て米価自然の調節力を傷ふに至る危険無しとせずだ。米価のみならず何事に対しても、余りに不自然の措置を取る事は益が無いのみか却て害になる。政府の力を以てさへすれば、如何に不自然な事でも之を為し遂げ得らるるものだと思つたら、それは飛んでも無い料簡違ひである。米価は船を楫で動かすやうな調子で政府の意のままに動かし得らるるもので無い。
 維新前、江戸の町奉行は其命令によつて市内の米価を一定さした事がある。殊に之は天保の頃に劇しく行はれた模様であるが、昨今仲小路農相の米価引下げに就て腐心せらるる状態を観るに、或は仲小路農相は昔の町奉行気取りになつて居らるるのでは無からうかとも思ふ。然し、昨今は非常の時であるから、多少人力によつて干渉し米価を引下げるやうにせねばならぬものかも知れぬ。一体今度の欧洲戦争といふものが頗る不自然のものであるのだから、その間に米価の騰貴などに就ても、不自然なところがあるに相違無いのだ。この不自然を矯めて米価を自然のものとするには、猶且多少は不自然な干渉を政府の手で試みねばならぬ必要もあらう。この点に於ては、私も仲小路農相の策に飽くまで反対の意見を懐くもので無いのである。ただ、之によつて政府の力を過信し、政府の力を以てさへすれば何事でも成らぬといふ事無く、米価も之を意のままに動かし、黒い物をも白くし得らるるものだと仲小路農相に考へられては甚だ困る。
子曰。天生徳於予。桓魋其如予何。【述而第七】
(子曰く、天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん。)
 茲に掲げた章句は、従来談話致したうちにも屡〻引用した処のもので、孔夫子が衛より宋へ赴かれんとする途上、大樹の下に弟子等を集め、礼に就ての訓話をして居られる最中に、宋の司馬桓魋なる者が、孔夫子に宋へ来られては自分が我儘を致す事ができ無くなるからとて兵士に命じ其大樹を抜き倒させ、孔夫子圧殺の陰謀を目論だ時に、之を知られて弟子等の心を安んぜんとして発せられた語である。
 世の中には天変地異といふものもあるから、如何に孔夫子の如き聖人と雖も、大地震が起りでもすれば、家が潰れて其の下敷となり、死んでしまはれぬとも限らぬ。現に藤田東湖の如きは、安政の江戸大地震に、母親を広い庭先に避難させようとした折、梁木の落ちて来るのに出遭ひ、之に圧されて落命して居る。然し、常に自分の身を慎み、省みて疚しからざる生涯を送つて来た者は、必ずしも孔夫子のみならず、誰でも皆、天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何にせん」との自信を生ずるやうになるものだ。私とても、別に孔夫子ほどの聖人では無いが、多年の経験によつてこの自信を得たかのやうに思ふ。私と孔夫子との間には凡と聖との差こそあれ、孔夫子とて同じく私と等しい人間であらせられる以上、私の経験に照らし、孔夫子が「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」の自信を感得せらるるまでになられた径路が私には能く解るのである。いろいろと深い経験を積み、三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知るといふほどになつてしまへば、如何に邪な人間共が自分を故意に殺さうとしても滅多な事で殺されるもので無いぐらゐの信念を持つに至るのは、誰とて当然の事である。孟子が「内に省みて疚しからざれば、千万人と雖も我れ行かん」といふ如き意気天を突く自信を得たのも、猶且同様の径路によるもので、世故に長じ学問を積んでくれば、誰でもみな斯うなるものである。
 東京市水道鉄管事件で、私が暴徒に襲はれた事のあるのは既に談話したうちにも一度申述べて置いたが、猶ほ私は二十六歳で京都に在つた頃、浪人に押しかけられて将に血を見んとするに至つた事がある。これは或る弱い者を私が庇護つたのが原因で起つた事件だ。
 近藤勇の新撰組には随分乱暴な人間も加はつてたが、中にも斯の新撰組に属する壬生浪人といふ仲間は、壬生に居住し、能く乱暴を働いて良民を悩ましたものである。或る晩のこと、私が或る者を預つて私の宿所に伴れて来て居ると、その壬生浪人三人ばかりが之を聞きつけて非常に怒り出し、什麽しても自分等の方へ渡してくれと人を以ての催促である。然し、私も妙な行き懸りで之を先方へ渡してやる気になれず、昔から窮鳥懐に入れば猟師も之を撃たずといふ譬もあるほど故飽くまで其者を庇護ふ事に所存の臍を固めたのである。すると壬生浪人共は、そんなら腕力に訴へても奪ひ取つて見せるといふ意地張になり、喜作が私と姓が同じいところから、同じ渋沢違ひで同人を私と間違へ、喜作の宿所へ突然押し懸けて行つたのだ。然し喜作は壬生浪人から彼是云はれるやうな者を庇護まつてる覚えが無いから、其旨を答へ「多分人違ひであらう」と申開くと、そんなら栄一だらうといふので、その壬生浪人三人は喜作の宿所から転じて私の宿所へ押しかけて来たのである。
 喜作の宿所には一人大層気の悧いた下男があつて、それと看て取るや、必ず栄一の宿所へ浪人共が押し懸け来るに相違なしと思ひ、浪人共の先を廻つて宙を飛んで私の宿所へ駆け来り、既に寝に就いてた私を起し「其うちに壬生浪人共が押し懸けて来るから御用心なさい」と注進してくれたのである。然らば必ず押し懸け来るに相違無しと、私も多少の準備をして宿所の戸を堅く締めて待つてると、果して今の十時過ぎ頃になつてから、壬生浪人三人ばかりがやつて来たのである。裏口の方へ廻つて戸を開けろと切りに騒いだが、私が「什麽しても開けるわけには行かぬ、用があるなら戸外から言へ」と答へると「戸を開けられぬなら開けられぬで宜しいから庇護まつてる者を速に渡せ」といふのだ。私は其れもならぬと答へると、「そんなら戸を破つて踏み込んでも奪ひ取る」と浪人共は立ち騒ぐのである。そんな浪藉者に一旦私が庇護まつた者を手渡しては、何んな酷い目に遇はせるか知れぬ故、「愈よ以て渡すわけには相成らぬ。若し強ひて戸を破り家内に侵入するに於ては当方でも其儘には捨て置かぬ。相当の抵抗も致すから左様心得ろ」と申述べ、私も時宜によつたら、血を見ねばならぬやうになりはせんかと心配し、浪人共も頗る殺気立つて見えたが、そのうち私の庇護つて置いた者が「是非自分を外へ出してくれ。貴公へ私の事から御迷惑を懸けては相済まぬから……」と、私の抑止るにも拘らず何時の間にか素足で飛び出してしまつたのだ。それで浪人共は目的を達したもんだから、その者を引立てて去つてしまつたが、一時は却〻の騒ぎで、私も結局何うなることかと心配したほどである。後日に至り、この夜の事件が隊長近藤勇の耳に入り、三人の壬生浪人は近藤から甚く譴責されたさうである。
 遂に彼の桜田門外の事変となり万延元年三月三日水戸浪士の一団によつて刺された当時の幕府大老井伊掃部頭直弼に、果して「天、徳を予に生ず」といふほどの信念があつたか何うか――これは今私の茲に断言しかぬる処だが、公は平常余り出婆婆らず、何事にも口数の少ない秘密主義の人であつたとやらで、公が松平伊賀守の推薦により安政五年四月二十三日、突然幕府の大老職に挙げられた際、世間では掃部頭を、或は小児の如き無識者であると考へたり或は拱手尸位に甘んずる無能者であると思つたりして居つたものなさうだ。然るに愈よ其職に就き、幕府の首班となつたところを観ると、無智無能どころか意外にも果断敢行、幾多の志士を驚倒憤死せしむるまでのものがあつた。
 掃部頭は単に政治上に於て敢行果断絶倫の勇気を示した人たるのみならず、和学を修めて歌道にも長じ、茶道や絵画なぞの素養もあり、又仏典をも修め、一時は出家して僧にならうとの志をさへ起したことのあるほどで、却〻博識の人であつたのである。それで外見が或は小児の如く或は無智無能の者の如くであつたといふのだから、大石良雄が若い頃に「昼行灯」の譏を受けて世間より馬鹿にせられて居つたのに一寸似たところがあり、余程の人物であつたに相違無い。随つて大老職に就いてからは、国家の大事に当り、京都のヒヨロヒヨロした青公卿なぞに何ができるものかと謂つたやうな意気軒昂の態度を示し、余り調子に乗り過ぎて朝廷を軽んずるに至つたものらしい。
 掃部頭が大老職に就いてから起つた事件のうちで、殊に甚しく水戸藩士の反感を買つたのは、安政五年に水戸家へ朝廷から下された密勅を取り返さうとした所置で、掃部頭は之が為手を変へ品を変へて水戸藩を圧迫したのだ。之に対し水戸の藩士は密勅を返上させまいとして凡ゆる反抗を試み、為に水戸の志士中には掃部頭を斬るべしとの議を生ずるに至り、遂に彼の桜田事変を醸したのである。この事変の主動者となつたものは高橋多一郎、金子孫二郎の両人であつたが、両人の真意は、掃部頭を倒して置いてその機会を利用し、薩長と水戸とを結び付け、その聯合勢力により倒幕の目的を達しようといふにあつたので、両人は特に避けて、掃部頭を桜田門外に襲うた浪士の仲間に加らず、高橋多一郎は大阪に向け、金子孫二郎は京都に向つて出発したのである。
 然し事変後これが露現したので、金子は幕吏によつて京都で斬られ高橋は大阪で自殺してしまつたのだ。さればとて掃部頭を斬つてしまはねばならぬといふのは、水戸藩の意志であつたわけでも無い。烈公の如きは予め之を聞かれた際に極力制止せられたほどであるから、掃部頭の殺害は水戸藩一部の者が、一時の客気に逸つて為出来した事件であると観るのが至当だらう。
 慶喜公の御生前中に同公より親しく私が承つたところによれば、井伊掃部頭直弼といふ人は、大層人ざはりの悪かつた人で、慶喜公などは、甚だ交際ひにくいやうに感ぜられてあつたとの事だ。これは掃部頭が将軍相続の事から南紀党の首領となり、紀伊宰相慶福公を養君に擁立するに力を尽し、水戸派の迎立せんとする一橋刑部卿慶喜公を排斥の結果、掃部頭は色々の圧迫を慶喜公に加へたので、掃部頭と慶喜公との間は何んと無く面白く無かつたのにも因ることと思ふが、必ずしも爾うとばかりは謂へず、井伊掃部頭といふ人は何処か人ざはりの悪い、交際ひにくいところのあつた人らしいのである。これが刺客に刺された因を為したものだらう。
 私は数年前から東北振興会を起し東北地方開発の為に些か微力を尽して居る次第は、之まで談話したうちにも申述べ置いたが、本年(大正七年)はこの東北振興会が主催となり、農商務省特許局で撮影した活動写真を持つて廻り、之を東北人に見せ、東北人の発明心を刺戟しようといふ事になり、八月上旬福島を振出しに漸次東北六県全体に及ぼす筈だから、私は福島まで出かけてこの発明奨励活動写真の振出しに、一つ演説をする積である。現今でも東北と私とは斯く切つても切れぬ関係になつてるが、明治十年五月十四日、大久保利通公が刺客たる石川県人島田一郎等によつて暗殺された時にも、恰度私は東北方面へ出張中であつたのだ。
 当時既に東北の開発を計らねばならぬと云ふ意見は、廟堂にも民間にも盛んであつたので、之が為是非東北に一の良湾を発見して築港を急ぐべきであるといふ事になり、いろいろ踏査もしてみたが、石巻も駄目、釜石も亦駄目だから、北上川を中断して運河を開鑿すると共に宮城県野蒜の港に築港工事を施すのが第一の得策であるとの意見が、和蘭人ハンドルンによつて提唱せられ、政府もこのハンドルンの意見を容れ、四五百万円――此頃では大した金額でも無いが、当時としては相当の大金を之に投じて、野蒜の築港を決行することになつたのである。然るに政府には勿論財源が無い。依て百万円の起業公債を民間から募集することになつたのだ。
 政府は其の前にも公債を発行した例が無いでも無いが、その一は旧藩制時代の各藩の負債を新政府が受け継いで発行したもので、他の一つは旧禄の代りに発行して士族へ交附した金禄公債証書である。証券と引換に現金を受取つた真の意味に於ける公債を発行するのは、野蒜築港費に充てる為の四百万円の起業公債が維新以来最初であつたのである。之が売出しを今日の引受シンヂゲートの如き形式で第一国立銀行が引受けることになつたので、私は其用務を帯び、暫く東京を留守にし、東北地方を巡回して帰京すると、其留守中に大久保公が刺客によつて殺されたといふ事を聞いたのである。
 大久保公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは私も知らぬが、兎に角大久保公は細かい処に気が付き、鋭いところのあると同時に又略のあつた人だ。私が大久保公に初めて御目に懸つたのは明治四年であつたやうに思ふが、和蘭から万国電信同盟へ加入せぬかと政府へ照会があつたので、その可否を決するに先立ち私の意見を聞きたいから遇ひたいといふ事であつたのだ。命に応じて私が大久保公の許へ参ると、公の申されるには「この事に就ては外務の役人へ問ひ尋ね、又その道の技師等へ諮問してもよいのだが、それでは形式的の答案を得らるるのみで益するところが少いから、是非専門の役人で無い貴公の意見を聞きたい……」といふにあつたのだ。当時大蔵省の役人であつた私が、之に旨く答弁のできやう筈なく、ただ当惑するのみであつたが、万国電信同盟へは兎に角本邦も加入して然るべく、なほ詳細は追つて大蔵省の改正掛に於て調査の上答申致すべき旨を答へ、私は退下つたのである。
 帰つてから大隈侯へ此の事を話すと、「堂々たる大文章なんかで答へたら飛んでも無い馬鹿を見る、大久保だからつて電信の事を渋沢へ聞いたところで解るもので無いくらゐのことは先刻知つてるが、これを機会に渋沢は何んな人間か、評判だけでは解らぬから親しく遇つて知つて置かうと、それで態〻貴公を喚んだのだらう」と侯は笑つて居られた。
 岩倉具視公は、京都の公卿に珍らしい策のあつた方で、三条実美公が朝廷を長州へ結び付けることに骨折られて居た一方に於て朝廷を薩州へ結び付けることに骨折り、薩州の志士と往来したり、又之より先き孝明天皇の皇妹和宮様を徳川将軍家茂の御台所として御降嫁を請ひ公武合体を策したりしたのも岩倉公である。岩倉公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは知らぬが、公も征韓論のことから明治七年一月十四日、高知県人武市熊吉以下五名の刺客に赤坂喰違ひで危く刺されようとしたことがある。維新前後にも猶ほ刺客に窺はれたのは、屡〻あつたとの事だ。それから勝安房守も刺客には屡〻狙はれたのだが、勝伯は刺客に襲はれても面会なんか避けず、堂々と面会して刺客の心を転じさせるに妙を得て得られたものであつたとの事である。勝伯に「天、徳を予に生ず」との自信があつたか何うかは知らぬが、岩倉公にしろ勝伯にしろ、兎角策のある人が要路に立つと生命を狙はるる傾向のあるものだ。
 孔夫子が「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何にせん」の語も、孔夫子が天寿を全うされて、刺客の為に殺されるやうなことが無かつたので、今日になつて之を読めば頗る面白く感ぜられ、有意義にもなるが、若し此の語を発せられた後に刺客の手によつて孔夫子が殺されるやうになりでもしたら、甚だ妙なものになつてしまひ、この語も一種の滑稽を以て視られるやうになつてしまつたかも知れぬ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.301-309
底本の記事タイトル:二七三 竜門雑誌 第三六六号 大正七年一一月 : 実験論語処世談(第四十回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第366号(竜門社, 1918.11)
初出誌:『実業之世界』第15巻第16,17号(実業之世界社, 1918.08.15,09.01)