デジタル版「実験論語処世談」(40) / 渋沢栄一

7. 掃部頭は人当りが悪い

かもんのかみはひとあたりがわるい

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 遂に彼の桜田門外の事変となり万延元年三月三日水戸浪士の一団によつて刺された当時の幕府大老井伊掃部頭直弼に、果して「天、徳を予に生ず」といふほどの信念があつたか何うか――これは今私の茲に断言しかぬる処だが、公は平常余り出婆婆らず、何事にも口数の少ない秘密主義の人であつたとやらで、公が松平伊賀守の推薦により安政五年四月二十三日、突然幕府の大老職に挙げられた際、世間では掃部頭を、或は小児の如き無識者であると考へたり或は拱手尸位に甘んずる無能者であると思つたりして居つたものなさうだ。然るに愈よ其職に就き、幕府の首班となつたところを観ると、無智無能どころか意外にも果断敢行、幾多の志士を驚倒憤死せしむるまでのものがあつた。
 掃部頭は単に政治上に於て敢行果断絶倫の勇気を示した人たるのみならず、和学を修めて歌道にも長じ、茶道や絵画なぞの素養もあり、又仏典をも修め、一時は出家して僧にならうとの志をさへ起したことのあるほどで、却〻博識の人であつたのである。それで外見が或は小児の如く或は無智無能の者の如くであつたといふのだから、大石良雄が若い頃に「昼行灯」の譏を受けて世間より馬鹿にせられて居つたのに一寸似たところがあり、余程の人物であつたに相違無い。随つて大老職に就いてからは、国家の大事に当り、京都のヒヨロヒヨロした青公卿なぞに何ができるものかと謂つたやうな意気軒昂の態度を示し、余り調子に乗り過ぎて朝廷を軽んずるに至つたものらしい。
 掃部頭が大老職に就いてから起つた事件のうちで、殊に甚しく水戸藩士の反感を買つたのは、安政五年に水戸家へ朝廷から下された密勅を取り返さうとした所置で、掃部頭は之が為手を変へ品を変へて水戸藩を圧迫したのだ。之に対し水戸の藩士は密勅を返上させまいとして凡ゆる反抗を試み、為に水戸の志士中には掃部頭を斬るべしとの議を生ずるに至り、遂に彼の桜田事変を醸したのである。この事変の主動者となつたものは高橋多一郎、金子孫二郎の両人であつたが、両人の真意は、掃部頭を倒して置いてその機会を利用し、薩長と水戸とを結び付け、その聯合勢力により倒幕の目的を達しようといふにあつたので、両人は特に避けて、掃部頭を桜田門外に襲うた浪士の仲間に加らず、高橋多一郎は大阪に向け、金子孫二郎は京都に向つて出発したのである。
 然し事変後これが露現したので、金子は幕吏によつて京都で斬られ高橋は大阪で自殺してしまつたのだ。さればとて掃部頭を斬つてしまはねばならぬといふのは、水戸藩の意志であつたわけでも無い。烈公の如きは予め之を聞かれた際に極力制止せられたほどであるから、掃部頭の殺害は水戸藩一部の者が、一時の客気に逸つて為出来した事件であると観るのが至当だらう。
 慶喜公の御生前中に同公より親しく私が承つたところによれば、井伊掃部頭直弼といふ人は、大層人ざはりの悪かつた人で、慶喜公などは、甚だ交際ひにくいやうに感ぜられてあつたとの事だ。これは掃部頭が将軍相続の事から南紀党の首領となり、紀伊宰相慶福公を養君に擁立するに力を尽し、水戸派の迎立せんとする一橋刑部卿慶喜公を排斥の結果、掃部頭は色々の圧迫を慶喜公に加へたので、掃部頭と慶喜公との間は何んと無く面白く無かつたのにも因ることと思ふが、必ずしも爾うとばかりは謂へず、井伊掃部頭といふ人は何処か人ざはりの悪い、交際ひにくいところのあつた人らしいのである。これが刺客に刺された因を為したものだらう。

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デジタル版「実験論語処世談」(40) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.301-309
底本の記事タイトル:二七三 竜門雑誌 第三六六号 大正七年一一月 : 実験論語処世談(第四十回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第366号(竜門社, 1918.11)
初出誌:『実業之世界』第15巻第16,17号(実業之世界社, 1918.08.15,09.01)