デジタル版「実験論語処世談」(40) / 渋沢栄一

9. 大久保と勝と岩倉と

おおくぼとかつといわくらと

(40)-9

 大久保公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは私も知らぬが、兎に角大久保公は細かい処に気が付き、鋭いところのあると同時に又略のあつた人だ。私が大久保公に初めて御目に懸つたのは明治四年であつたやうに思ふが、和蘭から万国電信同盟へ加入せぬかと政府へ照会があつたので、その可否を決するに先立ち私の意見を聞きたいから遇ひたいといふ事であつたのだ。命に応じて私が大久保公の許へ参ると、公の申されるには「この事に就ては外務の役人へ問ひ尋ね、又その道の技師等へ諮問してもよいのだが、それでは形式的の答案を得らるるのみで益するところが少いから、是非専門の役人で無い貴公の意見を聞きたい……」といふにあつたのだ。当時大蔵省の役人であつた私が、之に旨く答弁のできやう筈なく、ただ当惑するのみであつたが、万国電信同盟へは兎に角本邦も加入して然るべく、なほ詳細は追つて大蔵省の改正掛に於て調査の上答申致すべき旨を答へ、私は退下つたのである。
 帰つてから大隈侯へ此の事を話すと、「堂々たる大文章なんかで答へたら飛んでも無い馬鹿を見る、大久保だからつて電信の事を渋沢へ聞いたところで解るもので無いくらゐのことは先刻知つてるが、これを機会に渋沢は何んな人間か、評判だけでは解らぬから親しく遇つて知つて置かうと、それで態〻貴公を喚んだのだらう」と侯は笑つて居られた。
 岩倉具視公は、京都の公卿に珍らしい策のあつた方で、三条実美公が朝廷を長州へ結び付けることに骨折られて居た一方に於て朝廷を薩州へ結び付けることに骨折り、薩州の志士と往来したり、又之より先き孝明天皇の皇妹和宮様を徳川将軍家茂の御台所として御降嫁を請ひ公武合体を策したりしたのも岩倉公である。岩倉公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは知らぬが、公も征韓論のことから明治七年一月十四日、高知県人武市熊吉以下五名の刺客に赤坂喰違ひで危く刺されようとしたことがある。維新前後にも猶ほ刺客に窺はれたのは、屡〻あつたとの事だ。それから勝安房守も刺客には屡〻狙はれたのだが、勝伯は刺客に襲はれても面会なんか避けず、堂々と面会して刺客の心を転じさせるに妙を得て得られたものであつたとの事である。勝伯に「天、徳を予に生ず」との自信があつたか何うかは知らぬが、岩倉公にしろ勝伯にしろ、兎角策のある人が要路に立つと生命を狙はるる傾向のあるものだ。
 孔夫子が「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何にせん」の語も、孔夫子が天寿を全うされて、刺客の為に殺されるやうなことが無かつたので、今日になつて之を読めば頗る面白く感ぜられ、有意義にもなるが、若し此の語を発せられた後に刺客の手によつて孔夫子が殺されるやうになりでもしたら、甚だ妙なものになつてしまひ、この語も一種の滑稽を以て視られるやうになつてしまつたかも知れぬ。

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デジタル版「実験論語処世談」(40) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.301-309
底本の記事タイトル:二七三 竜門雑誌 第三六六号 大正七年一一月 : 実験論語処世談(第四十回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第366号(竜門社, 1918.11)
初出誌:『実業之世界』第15巻第16,17号(実業之世界社, 1918.08.15,09.01)