9. 大久保と勝と岩倉と
おおくぼとかつといわくらと
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帰つてから大隈侯へ此の事を話すと、「堂々たる大文章なんかで答へたら飛んでも無い馬鹿を見る、大久保だからつて電信の事を渋沢へ聞いたところで解るもので無いくらゐのことは先刻知つてるが、これを機会に渋沢は何んな人間か、評判だけでは解らぬから親しく遇つて知つて置かうと、それで態〻貴公を喚んだのだらう」と侯は笑つて居られた。
岩倉具視公は、京都の公卿に珍らしい策のあつた方で、三条実美公が朝廷を長州へ結び付けることに骨折られて居た一方に於て朝廷を薩州へ結び付けることに骨折り、薩州の志士と往来したり、又之より先き孝明天皇の皇妹和宮様を徳川将軍家茂の御台所として御降嫁を請ひ公武合体を策したりしたのも岩倉公である。岩倉公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは知らぬが、公も征韓論のことから明治七年一月十四日、高知県人武市熊吉以下五名の刺客に赤坂喰違ひで危く刺されようとしたことがある。維新前後にも猶ほ刺客に窺はれたのは、屡〻あつたとの事だ。それから勝安房守も刺客には屡〻狙はれたのだが、勝伯は刺客に襲はれても面会なんか避けず、堂々と面会して刺客の心を転じさせるに妙を得て得られたものであつたとの事である。勝伯に「天、徳を予に生ず」との自信があつたか何うかは知らぬが、岩倉公にしろ勝伯にしろ、兎角策のある人が要路に立つと生命を狙はるる傾向のあるものだ。
孔夫子が「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何にせん」の語も、孔夫子が天寿を全うされて、刺客の為に殺されるやうなことが無かつたので、今日になつて之を読めば頗る面白く感ぜられ、有意義にもなるが、若し此の語を発せられた後に刺客の手によつて孔夫子が殺されるやうになりでもしたら、甚だ妙なものになつてしまひ、この語も一種の滑稽を以て視られるやうになつてしまつたかも知れぬ。
- キーワード
- 大久保利通, 勝海舟, 岩倉具視
- 論語章句
- 【述而第七】 子曰、天生徳於予。桓魋其如予何。
- デジタル版「実験論語処世談」(40) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.301-309
底本の記事タイトル:二七三 竜門雑誌 第三六六号 大正七年一一月 : 実験論語処世談(第四十回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第366号(竜門社, 1918.11)
初出誌:『実業之世界』第15巻第16,17号(実業之世界社, 1918.08.15,09.01)