デジタル版「実験論語処世談」(10) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.15-22

 乱世の豪傑が礼に慣はず兎角家道の斉まらぬ例は、単に明治維新の際に於る今日の所謂元老ばかりでは無い。何れの時代に於ても乱世には皆爾うしたものである。私なぞも家道が斉まつてると、口はばつたく申上げて誇り得ぬ一人であるが、かの稀世の英雄豊太閤などが、矢張礼に慣はず家道の斉まらなかつた随一人である。乱世に生ひ立つたものには素より賞むべきでは無いが、甚麽も斯んな事も致方の無い次第で、余り酷には責むべきでも無からうかと思ふ。然し豊太閤に若し最も大きな短所があつたとすれば、それは家道の斉まらなかつた事と機略があつても経略が無かつた事とである。
 豊太閤の長所はと云へば、申すまでもなくその勉強、その勇気、その機智、その気概である。
 此く列挙した秀吉の長所のうちでも、長所中の長所とも目すべきものはその勉強である。私は秀吉の此の勉強に、衷心より敬服し、青年子弟諸君にも是非秀吉の此の勉強を学んで貰ひたく思ふものである。事の成るは成るの日に成るに非ずして、その由来する所や必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がつたのは、一に其勉強にある。
 秀吉が木下藤吉郎と称して信長に仕へ草履取りをして居つた頃、冬になれば藤吉郎の持つてた草履は常に之を懐中に入れて暖めて置いたので、何時でも温かつたといふが、こんな細かな事にまで亘る注意は余程の勉強でないと到底行届かぬものである。又、信長が朝早く外出でもしようとする時に、まだ供揃ひの衆が揃ふ時刻で無くつても、藤吉郎ばかりは何時でも信長の声に応じて御供をするのが例であつたと伝へられて居るが、これなぞも、秀吉の非凡なる勉強家たりしを談るものである。
 天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあつて毛利輝元を攻めて居つたのであるが、変を聞くや直ちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率ゐて中国より引つ返し、京都を去る僅かに数里の山崎で光秀の軍と戦ひ、遂に之を破つて光秀を誅し、其首を本能寺に梟すまでに秀吉の費した日数は、信長が本能寺に弑せられてより僅に十三日、唯今の言葉で申せば二週間以内のことである。鉄道も無く車も無い交通の不便この上無き其頃の世の中に、京都に事変のあつたのが、一旦中国に伝へられた上で和議を纏め、兵器から兵卒まで借入れて京都へ引つ返すまでに、事変後僅かに二週間を出でなかつたといふのは、全く秀吉が尋常ならぬ勉強家であつた証拠である。勉強が無ければ、如何に機智があつても、如何に主君の仇を報ずる熱心があつても、斯くまで万事を手早く運んで行けるものではない。備中から摂津の尼ケ崎まで昼夜兼行で進んで来たのであると謂ふが、定めし爾うであつたらうと思ふ。
 翌天正十一年が直ぐ賤ケ岳の戦争になつて、柴田勝家を滅ぼし、遂に天下を一統して天正の十三年に秀吉も目出度関白の位を拝するやうになつたのであるが、秀吉が斯く天下を一統するまでに要した時間は本能寺の変あつて以来僅に満三年である。秀吉には素より天稟の勝れた、他に異る所もあつたに相違無いが、秀吉の勉強が全く之を然らしめたものである。又、秀吉が信長に仕へてから間もなく、清洲の城を僅に二日間に修築して信長を驚かしたといふ事も伝へられて居るが、之とても一概に稗史小説の無稽譚とのみ観るべきでない。秀吉ほどの勉強を以てすればこれぐらゐの事は必ずできた事と思ふ。
 御前槍仕合の譚は随分有名なもので、絵本太閤記などにも掲げられ面白可笑しく書かれてあるが、これなぞも稗史小説家が単に太閤の一生を飾るために編み出した、虚構の作意であるとばかりは謂へぬ。全く実際の事実としてあつたことで、依て以て秀吉の如何に機略に富んだ人物であつたかを窺ひ得られるものと思ふ。長槍、短槍の得失論が起つた時に、短槍の利を説いた上島主水が敵方の探偵であるのを看破し、あべこべに長槍の利を説き、信長御前の仕合に於て主水をして顔色なきまでの敗を取らしめたなぞは、素より秀吉の機略によるが、又其の勉強にも依ることである。平素より能く勉強して細事に注意して居らなかつたならば、主水が敵方の廻し者であつたのを知り得られさうな筈が無い。
 秀吉が中国の陣中に在つて本能寺の変を聞くや、立処に一切の事情を隠す所なく披瀝して毛利輝元と和議を講じた所なぞは、是又如何に秀吉の機略に富むかを示すに足るものであるが、秀吉には斯く機に臨み変に応じて事を処する機略があつても、部下の如何なる人物を如何なる部署に配置し、如何なる順序方法によつて全体の事業を進行さして行くべきかといふ事に就ての経略の才が無かつたやうに思はれる。その結果は、何でも才智に富んだ人物でさへあればその根本の精神如何を問ふの遑なく悉く之を信用して重用し、之に重要なる位置を与へたるかの如くに観られる。
 石田治部少輔三成や小早川隆景などが重く用られて秀吉の信用を得たのは、全く秀でたる才智があつた為だが、秀吉は三成、隆景の如き才智のある人物のみを重用した結果は、加藤清正の如き忠誠無二の臣を疎んずるに至り、秀吉は三成、隆景等の才に魅せられて清正を卻ける気味があつたと云はれても弁解の辞が莫からうと思ふ。ただ片桐且元のみが忠誠無二の士でありながら、猶ほ且つ秀吉の信用を得て居つたのは寧ろ異数とするに足るが、且元の秀吉に信用せられたのはその無二の忠誠に因るよりも、寧ろ、その機略に富んだところにあつたらうかと思ふ。且元は清正の如く単に忠誠無二といふだけの人物では無い。元禄事変の大石良雄の如く、却々複雑した性格を有つた機略に富んだ人物である。
 秀吉の晩年が甚だ振はなかつたのにはいろいろの原因もあらうが、斯く才智のある人物をのみ偏重して部下の人物配置の法その当を得ず機略にのみ秀でて、経略即ち経綸の才に乏しかつたことは確に其一つだらう。然しその最大原因は、礼の大本を弁へず漫りに淀君の愛に溺れて、其間に生れた秀頼を寵し、一旦猶子にまでして関白の位を継がしめた秀次を疎んじ卻け、遂に之に反意を懐かしむるに至り、反意ありと知るや之を高野山に放つて切腹を命じ、その首を三条河原に梟して遺骸を葬りし墳墓に畜生塚の名を附し、一族の子女妻妾侍臣に至るまで悉く之を誅するなど、家道の甚だ斉まらなかつた所にあらうかと思ふ。
 太田錦城などの意見も此の点に於て私の思ふ所と同じで、秀吉が信長の遺子北畠内大臣信雄及び神戸三七信孝に対する処置は、戦国の事情止むを得ざるものとして責むべきではないが、秀次に対する処置は甚だ其当を得ざるもので、恕すべからずと論じて居る。畢竟皆礼の大本を忘れたるの致すところ也と云はねばならぬ。
 今日の如くに男女間道徳の進歩して居らぬ時代に於ては、売女に戯るるとか、或は又、美しい女を容れて妾にするとかいふ事は素より賞むべきで無いが、必ずしも酷に責むるわけにも行かぬ。殊に乱世の英雄に斯ることの存するのは止むを得ぬ次第である。然し女に戯れ色に近づく間にも、如何に乱世なればとて、如何に英雄なればとて、倫常を無視して差支ないといふ法は決してあり得べからざることである。然るに秀吉は礼の大本を心得居られぬ方であつたものか、女に戯れ色に近づいてる間に、人間として如何なる場合に於ても離れてはならぬ倫常を離れ、淀君の愛に溺れては、秀次に対し常識を逸せる処置に出で、其他、我意に任せ、女に関する事に就ては随分我儘気儘、勝手放題の仕たい三昧をした形跡がある。
 蒲生氏郷は素と織田信長に仕へて其寵を受け、永禄十二年八月、信長大河内の城を攻めるに当り、年僅に十四にして先登の功を立て、信長の娘を娶されて之を妻としたほどの英才であるが、信長の歿後氏郷の秀吉に仕ふるやうになるや、秀吉は氏郷の妻の美しさに迷ひ、氏郷に迫つて其妻を献ぜしめ、之を容れて妾にしたといふが、これは秀吉が単に氏郷の妻の美貌に迷つた為めばかりとも謂へず、多少其間に戦国時代の特色たる政略上の意味も混じ、氏郷の妻が信長の娘である処より、之を妾にして置けば、信雄、信孝等を制するに便ありと考へたのにも因らうかなれど、仮令、信雄、信孝と同胞たるにせよ、既に一旦氏郷の妻になつてる女を、無理から其夫に迫つて之を自分の側室にするなどといふ事は、倫常を無視するの甚しきもの也と言はねばならぬ。
 天正十二年秀吉小牧山の陣を収め、長湫の戦を終へ、漸く大勢の己れに利あるを見るや天下一統の志を起てたが、目の上の瘤たる家康の事が気に懸つて堪らぬので、早く家康と和協の実を挙げたいものと思ひ、参河にある家康に切りに上洛を促したが、家康もさるもの、容易に之に応ずる色が無い。是に於てか秀吉も遂に力尽きて施すの策なく自分の生みの母を人質にして家康の許に送り、漸く家康をして上洛せしめ、之と和睦するを得たといふ事は、正史の伝ふる処である。
 秀吉如何に天下を一統するに鋭意し、家康と和睦を講ずるに急であつたからとて、天にも地にも懸け替の無い我が生みの母を家康の許に人質として遣すを意に介せず、之によつて僅に家康との和を調へたなどといふのは、実以て沙汰の限りで、人倫を無視するの甚しきものである。
 又、既に佐治若狭守の妻になつて居つた自分の妹を取り返し、家康と和睦したさの一念から、之を家康の妻として嫁せしめたなども随分乱暴な処置で、倫常を無視したものであると謂へる。人質や政略結婚は如何に戦国の習ひであるとは申しながら、斯く礼の大本を忘れて人倫を蹂躪し、乱暴無尽に挙動つては如何なる英雄と雖も決して其の終りを美しくしさうな筈がない。是が秀吉に気概あり、勇気あり、機智あり、而も非凡の勉強家なりしに拘らず、其晩年に至るや甚だ振はず豊臣家の末路なるものが悲惨を極むるに至つた所以である。
 秀吉の晩年に就て譬へ、豊臣家の末路に鑑みても、人は勢ひに乗じ好い気になつて、傍若無人、倫常を無視する如き挙動に出でてはならぬものである事が肯かれるだらうと思ふ。青年子弟諸君は能く此の消息を胸底にをさめ置かれ、如何なる場合に於ても礼の大本を忘れぬやうに心懸けて然るべきものである。然らずんば一敗再び起つ能はざる如き悲惨なる境遇に陥らねばならぬ事にもなる。
子夏問曰。巧笑倩兮。美目盼兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。絵事後素。曰。礼後乎。子曰。起予者商也。始可与言詩已矣。【八佾第三】
(子夏問うて曰く、巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは何の謂ぞや。子曰く、絵の事は素より後にす。曰く、礼は後か。子曰く、予を起すものは商なり、始めて与に詩を言ふべきのみ。)
 この章句も礼に関したものであるが、巧笑倩たり以下絢たりまでの句は、逸詩と申して詩経に漏れて載らなかつた詩であるが、其意は、一たび笑へば其口元倩として忽ち万人を悩殺し、目元の美しく涼しいところは実に盼たるの美人でも、その微笑める口元とか或は又目元の美しい表情とかは抑〻末のこと、美貌の根柢になるものは生れついて持つたる明眸皓歯の天質である。これに粉黛衣服の絢を加へて茲に初めて美人の美人たるところが発揮せられるるものだといふにある。然るに、孔夫子の御弟子の子夏、即ち商は、「素以て絢を為す」の字句を「素が直に絢となる」との意に解し、甚だ合点の行かぬのに疑を発し、近頃の言葉でいふ認識論的の質問を孔夫子に持ちかけたものである。然るに孔夫子は例の気の利いた答弁振りによつて之に対し、恰も顧みて他を曰ふが如くにして「絵の事は素より後にす」と答へられ、絵に於ての大事は先づ粉地を作り、純白の素地を調へるにある、五彩を施して之を絵にするのはそれから後のことだと申されたのである。
 私は美術の方面は至つては不案内であるから、絵の事なぞに就て何事も申上げるわけに参らぬが、孔夫子は美人に関する詩より延いて絵の事に及ばれ、更に進んで道徳上のことを之によつて暗示せられたものである。子夏は孔夫子に斯る意があるを直ちに汲み取つて「然らば道徳上に於ても、礼より先になるものは仁義忠信で、これにより人間の素地を作つた上に礼の絢を施すべきものであるか」と再度の質問を発せられたものと思はれる。
 子夏即ち商の発した再度の質問は、大層孔夫子の御気に適つたものと見え「商よ、爾は予を失望せしめぬ好弟子である。爾の如くに考へてこそ始めて真に詩を解するものと謂へる」と子夏を御賞めになつたのであるが、如何にも其の通りで、礼は仁義忠信で出来あがつた徳性の上にかけられる仕上げである。又、美人の事を謡つた詩でも、人の解し方によつては之を道徳的にも解し、我が修養の一助に供し得るものである。
祭如在。【八佾第三】
(祭るには在すが如くにす。)
 これも、孔夫子が形式よりも大切なものは精神であるといふ意味を教へられた語で、祖先を祀るにしても、眼前に其人あるが如き精神を以てせざれば、如何に祭式を調へてもそれは裳脱の殻同然のものだといふ教である。
 私は、及ばずながら此の精神を以て我が祖先に対し、我が亡き父母に対することを心懸けて居る。従つて墓地を立派に飾るとか何とかいふことを致さず、ただ世間並にして置くばかりである。元来私の家は代々古義真言を宗旨とする寺の檀家であつたのだが、私の東京に居住するやうになつて以来、私が徳川家と関係のある都合上より、只今では私も上野寛永寺の檀家に移り、寛永寺を私の家の菩提所に定め、同寺の境内には既に先妻の墳墓もある。私も死ねば、矢張、其処に参ることになつて墓地が取つてある。さればこそ別にその墓地を立派にして置くといふわけでも無い。ただ私が渋沢家代々の為に微かな招魂碑を建て、位牌堂を寛永寺の境内に設けた丈けである。要するに祖先より亡父母に至るまでの霊を、在すが如くにして祀らんとする微意に外ならぬ。
 私の母は、他の女と変つた所のあつた豪い女だと、今になつても素より想ひはせぬが、非常に人情の深い慈愛に富んだ女であつたこと丈けは確実で、今日になつても、之を想ふと涙の垂れるほど有難く感ぜられる。母は家付の娘で、父は同村の渋沢宗助といふ家から私の家へ聟養子に参つたのであるが、父のことは今になつて想へば思ふほど豪い非凡の人であつたと、益〻敬服するばかりである。父の事に就てはこれまでも既に申述べ置いたので、大略、読者諸君も承知せられて居ることと思ふが、極めて方正厳直、一歩も他人に仮すことの嫌ひな持前の人で、如何に些細なことでも四角四面に万事を処置する風があつたのみならず、非常な勤勉家で相応な家産をも作り出したほどの人ゆゑ、働く方の慾は極めて深かつたが、物惜しみなどは毫も致さず、至つて物慾には淡泊の方で、義の為だとなれば折角丹精して作りあげた身代でも何でも、之を擲つて些か悔ゆる処無し、といつたやうな気概に富んだ人である。又、他人に対しても頗る厳格でありはしたが、深刻だといふ質でなく、小言を云ひながら能く他人の世話をしたものである。若し不肖の私に多少なりとも斯る美質がありとすれば、それは皆父の感化による賜であると謂はねばならぬ。
 父は平常多く書籍を読んで居つたといふほどの人でなかつたが、四書や五経ぐらゐは充分に読め、傍ら俳諧などもやるまでの風流気のあつたもので、何時でも自分相当の見識を備へ、漫りに時勢を追ひ、流行にかぶれるといふやうな事は無かつたものである。随つて私にも十四五歳までは読書、撃剣、習字等の稽古をさせたが、当時の時勢にかぶれて武士風にばかりなつても困るからとて、家業の藍を作つたり、之を買入れたり、又養蚕の事などにも身を入れるやうにせねばならぬと、常々私を戒められたものである。それで、私も父の命に負かず十七歳から二十二歳までの間に、毎年二度藍の商業の為信州へ出かけたほどであるが、世間が段々騒々しくなつて来たので、既に是まで申述べ置いた中にもある通り、私は隠忍して家業に勉強ばかりして居られなくなり、国事に奔走して見たいとの気を起したものだから、それとなく父に話もしたが、父は飽くまで「其位にあらずんば親らせず」の意見で、ただ国事の評論をするだけならば如何に農を業とする者でも之を敢てして拘はぬが、実際の政治向の事は、その位にある人に任して置くが可いと申され、私が国事に奔走せんとするのには不同意であつたものである。然し私は飽くまで国事に奔走し、幕府を倒してしまはねばならぬとの決心を棄てるわけにゆかず、甚麽しても郷里より江戸に出ようと心を定めたのである。
 然し、私は全く父に何も打明けず、突然郷里を逃げて出発しても宜しく無いと思つたものだから、それとなく訣別のつもりで文久三年九月十三日の夜、月見の宴にかこつけ、尾高藍香と渋沢喜作と私との三人が、父と一坐して月を見ながら天下の形勢を談り、愈よ私が国事に奔走せんとする決心のほどを仄めかして打ち明けることにしたが、父は依然として矢張り不同意で、其の位にあらざる者が如何に田舎から駆け出して単身奔走して見たところで、何の効果も挙るもので無いと諄々として説かれ、私の決心を翻させようとせられたのである。之に対し私は楠正成湊川戦死の例を引き、楠公とても必ず彼の戦で勝てるものとは思はなかつたらうが、死ぬまでも戦はれた処に楠公としての豪い処があるやうに、自分とても微力を以てして奔走したのでは、或は到底その目的を達し得られずに終るやも測り難いが、楠公の如く戦死しても厭はぬゆゑ、やれる処までやつて見る気であると、私が語を痛切にして決心の次第を父に物語ると、父も到底私の決心の翻し難きを見、それほどまでの決心ならば思ふままに行るが可い、私は干渉せぬからと、私の国事に奔走するのを許されたことは、既に是まで申述べ置いた所にもある通りである。私は是処が父の豪い所だと思うて感服せざるを得ぬのである。
 仏蘭西から帰朝して、明治元年十一月三日横浜に入港するや否や、其趣を直に父に報知してやると、仏蘭西にあるうち予て私より或は金子の必要を迫られ、送金して貰はねばならぬやうになるかも知れぬと父に通知して置いてあつたので、若干かの金子を懐にして早速東京まで出て来られたのであるが、既う金子の必要も無く当坐用は充分手許にあるから御心配に及ばぬと申述べ、色々と洋行の話などをして別れたのである。私は夫れより一旦静岡に参り、明治二年明治政府に出仕するやうになつて東京に家を持ち、妻子とも同棲することに相成つたので、父にも是非東京に参られて同じ家の内に住むやうにと話しても見たが、父は「貴公と私とは全然帰着点が違ふ。貴公は官にも出仕して居ればいろいろと交際も広かるべく、私のやうな田舎者が貴公の家に同居して居つては、水の中に油を入れたやうなもので貴公の迷惑にもなる。私は郷里に居る方が却て気楽で可いから」とて、甚麽しても東京居住を承諾せられなかつたものである。就ては私も父の意に任せ郷里に住まつて戴くやうにしたが、三ケ月に一度くらゐは出京せられて、その頃深川にあつた住宅に私を訪れられ、三四晩も泊つては又郷里に帰られたものである。
 私が大阪造幣寮の整理をする為に明治四年の夏同地に出張を命ぜられ、その任務を終へて東京に帰つたのは十一月の十五日であつたが、帰京すると、其月の十三日から郷里の父が大病であるとの飛脚に接したので、即刻にも出立して郷里に向ひたかつたのであるが、大阪滞在中の復命もせねばならず、又身苟にも官吏の班に列して居る以上、賜暇の手続きも経ねばならなかつたので、其一夜は千秋の思で過ごし、翌朝井上大蔵大輔に面会して大阪の事情を逐一報告に及んだ上、直に病父看護のため帰省の許可を得、折悪く降り切る大雨を冒し、中仙道を武州血洗島村にある郷里の家に着したのが、十六日の夜も大分晩くなつた午後十一時頃であつた。父は十三日に発病してから一時人事不省に陥つたさうであるが、幸ひ私の帰つた時には俗にいふ中癒とでも申すものであつたか、病状も稍〻快方に向つたらしく、気力も回復して、私が看護のため帰省したのを甚く悦ばれたものの、六十以上になつてからの大患とてたうとう全快せられず、十八日の昼頃から又人事不省に陥られ、二十二日といふに六十三歳を一期として遂に亡くなられてしまったのである。葬儀を郷里の菩提寺で営んで祖先の墓地に葬ることに致し、葬儀万端を済して帰京したのが十二月の初旬であったやうに記憶して居る。
 父の亡くなられた跡の郷里の家は私の妹に須永才三郎といふ親戚の者を婿に貰つて継がせるやうに致し、今日も猶ほ其儘続いて居るが、妹の子の渋沢元治といふのは既う相当の年配で、目下逓信省に奉職し相当の位置に就き電気局の逓信技師として電気の方面を担当し、工学博士にまでなつて居る。格別豪い人物だといふほどでも無からうが、将来のある人物として嘱望せられて居る。父母の墳墓は郷里にあるが私は度々郷里まで展墓に行く暇も無いので、祭祀の便利を得るやうに父の亡くなられた翌年、谷中の墓地に建てたのが前回に申述べて置いた招魂碑である。父の招魂碑に刻んである撰文は尾高惇忠の書いて呉れられたもので、左の通りである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.15-22
底本の記事タイトル:二〇六 竜門雑誌 第三三四号 大正五年三月 : 実験論語処世談(一〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第334号(竜門社, 1916.03)
初出誌:『実業之世界』第12巻第20,21,23号(実業之世界社, 1915.10.15,11.01,11.15)