デジタル版「実験論語処世談」(10) / 渋沢栄一

3. 中国より二週間にて山崎

ちゅうごくよりにしゅうかんにてやまざき

(10)-3

 天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあつて毛利輝元を攻めて居つたのであるが、変を聞くや直ちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率ゐて中国より引つ返し、京都を去る僅かに数里の山崎で光秀の軍と戦ひ、遂に之を破つて光秀を誅し、其首を本能寺に梟すまでに秀吉の費した日数は、信長が本能寺に弑せられてより僅に十三日、唯今の言葉で申せば二週間以内のことである。鉄道も無く車も無い交通の不便この上無き其頃の世の中に、京都に事変のあつたのが、一旦中国に伝へられた上で和議を纏め、兵器から兵卒まで借入れて京都へ引つ返すまでに、事変後僅かに二週間を出でなかつたといふのは、全く秀吉が尋常ならぬ勉強家であつた証拠である。勉強が無ければ、如何に機智があつても、如何に主君の仇を報ずる熱心があつても、斯くまで万事を手早く運んで行けるものではない。備中から摂津の尼ケ崎まで昼夜兼行で進んで来たのであると謂ふが、定めし爾うであつたらうと思ふ。
 翌天正十一年が直ぐ賤ケ岳の戦争になつて、柴田勝家を滅ぼし、遂に天下を一統して天正の十三年に秀吉も目出度関白の位を拝するやうになつたのであるが、秀吉が斯く天下を一統するまでに要した時間は本能寺の変あつて以来僅に満三年である。秀吉には素より天稟の勝れた、他に異る所もあつたに相違無いが、秀吉の勉強が全く之を然らしめたものである。又、秀吉が信長に仕へてから間もなく、清洲の城を僅に二日間に修築して信長を驚かしたといふ事も伝へられて居るが、之とても一概に稗史小説の無稽譚とのみ観るべきでない。秀吉ほどの勉強を以てすればこれぐらゐの事は必ずできた事と思ふ。

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キーワード
中国地方, 二週間, 山崎
デジタル版「実験論語処世談」(10) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.15-22
底本の記事タイトル:二〇六 竜門雑誌 第三三四号 大正五年三月 : 実験論語処世談(一〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第334号(竜門社, 1916.03)
初出誌:『実業之世界』第12巻第20,21,23号(実業之世界社, 1915.10.15,11.01,11.15)