デジタル版「実験論語処世談」(10) / 渋沢栄一
私が大阪造幣寮の整理をする為に明治四年の夏同地に出張を命ぜられ、その任務を終へて東京に帰つたのは十一月の十五日であつたが、帰京すると、其月の十三日から郷里の父が大病であるとの飛脚に接したので、即刻にも出立して郷里に向ひたかつたのであるが、大阪滞在中の復命もせねばならず、又身苟にも官吏の班に列して居る以上、賜暇の手続きも経ねばならなかつたので、其一夜は千秋の思で過ごし、翌朝井上大蔵大輔に面会して大阪の事情を逐一報告に及んだ上、直に病父看護のため帰省の許可を得、折悪く降り切る大雨を冒し、中仙道を武州血洗島村にある郷里の家に着したのが、十六日の夜も大分晩くなつた午後十一時頃であつた。父は十三日に発病してから一時人事不省に陥つたさうであるが、幸ひ私の帰つた時には俗にいふ中癒とでも申すものであつたか、病状も稍〻快方に向つたらしく、気力も回復して、私が看護のため帰省したのを甚く悦ばれたものの、六十以上になつてからの大患とてたうとう全快せられず、十八日の昼頃から又人事不省に陥られ、二十二日といふに六十三歳を一期として遂に亡くなられてしまったのである。葬儀を郷里の菩提寺で営んで祖先の墓地に葬ることに致し、葬儀万端を済して帰京したのが十二月の初旬であったやうに記憶して居る。
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- デジタル版「実験論語処世談」(10) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.15-22
底本の記事タイトル:二〇六 竜門雑誌 第三三四号 大正五年三月 : 実験論語処世談(一〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第334号(竜門社, 1916.03)
初出誌:『実業之世界』第12巻第20,21,23号(実業之世界社, 1915.10.15,11.01,11.15)