デジタル版「実験論語処世談」(10) / 渋沢栄一

7. 氏郷の妻に秀吉の母

うじさとのつまにひでよしのはは

(10)-7

 蒲生氏郷は素と織田信長に仕へて其寵を受け、永禄十二年八月、信長大河内の城を攻めるに当り、年僅に十四にして先登の功を立て、信長の娘を娶されて之を妻としたほどの英才であるが、信長の歿後氏郷の秀吉に仕ふるやうになるや、秀吉は氏郷の妻の美しさに迷ひ、氏郷に迫つて其妻を献ぜしめ、之を容れて妾にしたといふが、これは秀吉が単に氏郷の妻の美貌に迷つた為めばかりとも謂へず、多少其間に戦国時代の特色たる政略上の意味も混じ、氏郷の妻が信長の娘である処より、之を妾にして置けば、信雄、信孝等を制するに便ありと考へたのにも因らうかなれど、仮令、信雄、信孝と同胞たるにせよ、既に一旦氏郷の妻になつてる女を、無理から其夫に迫つて之を自分の側室にするなどといふ事は、倫常を無視するの甚しきもの也と言はねばならぬ。
 天正十二年秀吉小牧山の陣を収め、長湫の戦を終へ、漸く大勢の己れに利あるを見るや天下一統の志を起てたが、目の上の瘤たる家康の事が気に懸つて堪らぬので、早く家康と和協の実を挙げたいものと思ひ、参河にある家康に切りに上洛を促したが、家康もさるもの、容易に之に応ずる色が無い。是に於てか秀吉も遂に力尽きて施すの策なく自分の生みの母を人質にして家康の許に送り、漸く家康をして上洛せしめ、之と和睦するを得たといふ事は、正史の伝ふる処である。

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キーワード
蒲生氏郷, 相応院, 豊臣秀吉,
デジタル版「実験論語処世談」(10) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.15-22
底本の記事タイトル:二〇六 竜門雑誌 第三三四号 大正五年三月 : 実験論語処世談(一〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第334号(竜門社, 1916.03)
初出誌:『実業之世界』第12巻第20,21,23号(実業之世界社, 1915.10.15,11.01,11.15)