デジタル版「実験論語処世談」(5) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.670-676

 論語に就ての談話を申述べることにして置きながら、前回まで御話致した所は、何れかと申せば論語の章句に就てよりも、余談の身の上話になつてしまつたやうな傾きがある。然し、これとても「実験論語処世談」と謂ふ題目の上から観察すれば、必ずしも無益と申すものに非るべく、多少は青年子弟諸君の御参考にならうかと存ずる。又、論語の章句を逐うて逐章講義を致すやうな事は、浅学の私には到底能きぬのみならず、之を聴聞《おき》きになる方でも興味が少からうと信ずる。依て、今後も前回までの如く、論語の章句中で私を最も深く感動させ、また私の深く感銘して居るものをポチ〳〵抜いて、私の実験を取交ぜ談話致す事にする。
 一体人が人と接するに当つて懐く心情には二様ある。その一つは、何でも赤いものを見たら火事と思へ、人を見たら泥坊と思へと謂つたやうな調子で、遇ふほどの人見るほどの人を悉く皆、自分に損を懸けに来た人、自分より何か盗んで行かうとして来た人、自分を欺く為に来た人だと思つて接する心情で、今一つは恰度之と反対に、遇ふほどの人見るほどの人を総て皆誠意あるものとして遇し、自分も亦誠意を披瀝して之に接する心情である。人によつて客に接する法が斯く二つに別れる。
 他人から何事か依頼せらるれば、十中八九までは、依頼した方には利益になるが依頼せられて之を引受けた当人には多少とも損失が懸る事になるものである。損失とは必ずしも金銭上の損失を意味するので無いが、時間を損するとか或は又直接自分の利益にもならぬ事の為に特別の注意を払つて労苦を見てやらねばならぬといふ事になるものである。
 又多くの人に接する中には、表面だけは如何にも敬虔を装うて、所謂巧言令色、仮令へば私が論語の談話でもすると之に相槌を打つて至極難有さうに謹聴して厶るが、内心は侮蔑を以て私を視、「渋沢も馬鹿な事ばかり曰つてる男だ、勝手に話さして置けば悦んでるから聴いてやるんだ」と云つたやうな心情で、外と内との違つてる方が無いとも限らぬ。更に一層甚しい邪な念を持つた人になると、那個人《あいつ》を一つ旨く騙して之を煽てあげ、自分の利益を謀るやうにしてやらうなぞと計らぬとも限らぬ。沢山の人のうちには、斯る宜しからぬ方も多いので、遂に「赤いものを見たら火事と思へ、人を見たら泥坊と思へ」といふ如き諺までが出来るやうになつたものと思はれる。
 然し赤いものを見さへすれば総て之を火事と思ふやうに、見るほどの人を悉く泥坊と思つて接することになれば、自分の心情にも亦誠意が無くなり、那個人は己れを瞞しに来たのだから、瞞されぬやうに一つ這個辺《こち》からも其裏を掻いてやれと、偽に接するに偽を以てし、巧言令色を迎ふるに巧言令色を以てするやうになる。斯く互に瞞し合つて背後で舌を出してるやうにでもなると、世の中は全く治まりが着かぬ事にも相成、世道人心に悪影響を及ぼす事夥しく、世間の風潮が甚だ面白くないものになつてしまふ恐れがある。
 私は人に接し客を見るには、悉く之を泥坊と思ふが如き心情を以てせず、誠意を披瀝して客に接し、誠心を体して人を引見することに致して居る。決して疑ぐらずに誠を以て総ての人を遇するのが私の主義である。
 世間には又、客の来訪を受けても之に接するのを頗るオツクウなものに考へて、始めて来訪した人などに対しては、力めて遇はぬやうにせらるゝ方々もある。殊に、相当世間に名を成しでもした豪い方などになると、一層この傾きが甚しい。私が知人の宅を訪うてる際なぞにこれは親しく実見する所であるが、来訪者があるのを召使が主人に取次ぎでもすると、「今日は忙しいから遇はれぬ」とか、「何時遇へるか解らぬ」とか、乃至は又「当分遇へる日が無い」とかと、格別の忙しい事や故障が無ささうであるのに、強ひて来客を断り、何だか人に遇ふのを大変面倒な事にして居らるゝ方を見受ける場合が多い。少し名のある人は成るべく客に遇ふのを避けようとするのが、一般の傾向である。
 然し私は既に前回までにも申述べて置いた如く、誰様《どなた》にでも、病気か止むを得ざる支障の無い限り、決して御面会を謝絶せず、御来訪下さる方には必ず御目にかゝることにして居る。これは昔も今も変らず明治四年或はそれ以前より今日まで実行し来つた所である。
 斯んな風で、世間に多少名を成して顕れてる方々の中で、容易く簡便に来客に接せらるゝ方は先づ少いやうであるが、大隈伯丈けは稍〻私と同じ御店の張り方で、来るものは拒まず、誰でも之を引見して面談せらるゝやうに御見受け申すが、其他には、私と同じやうな門戸開放主義の方が余り無いらしく思はれる。私を訪問せられる方々の中には、私に交りを求められる為の方もあれば、又不肖なる私の談話でも聴かうといふ御篤志の方もあり、又私によつて用便を達さうといふ方もある。実にいろ〳〵であるが、私はそれに対して何れも誠意を以て御応対申し上げ、誠心を披瀝することに致して居る。私を御尋ね下さる多くの方々の中には、私が如何に誠心誠意を以て其人に対しても、誠心誠意を以て私に対して下されぬ方もあるか知れぬが、人間と申すものは不思議なもので、コチラから誠意誠心を以てすれば、不思議に先方も亦誠意誠心を以て対して下さるやうになり、偽り得なくなるものである。
 私は斯く誰様にでも厭ふところなく御面会し、誠意誠心を以て御応対申上げ、交りを求められる御方には交り、御談話を聴かうと仰せらるゝ方には不恙ながらも談話を致し、用便を達されようとする方には及ばず乍ら能きる丈けの御便宜を計るやうにはして居るが、其間にも私には又私で、私の人物観察法といふものがあつて、御来訪下さる多くの方々に就て、一々識別を致す事にして居る。然し人物を識別若くは鑑別するといふ事は却〻以て難渋しいもので、古人も人物観察法に就て種々の意見を述べられて居る。
 佐藤一斎先生は、人と始めて会つた時に得た印象によつて其の人の如何なるかを判断するのが、最も間違ひの無い正確な人物観察法なりとせられ、先生の著述になつた「言志録」の中には「初見の時に相すすれば人多く違はじ」といふ句さへある。始めて会つた時に能く其の人を観れば一斎先生の言の如く多くは誤たぬもので、度々会ふやうになつてからする観察は考へ過ぎて却つて過誤に陥り易いものである。始めて御会ひした初見の時に、この方は大抵斯んな方だな、と思うた感じには、いろ〳〵の理窟や情実が混ぜぬから至極純な所のあるもので、その方が若し偽り飾つて居らるれば、その偽り飾つて居られる所が、初見の時にはチヤンと当方の胸の鏡に映つてアリ〳〵と見える事になる。然し度々御会ひするやうになると、アヽで無いカウであらうなぞと、他人の噂を聞いたり理窟をつけたり、事情に囚はれたりして考へ過ぎることになるから、却て人物の観察を過まるものである。
 又孟子は「孟子」巻五七離婁章句上に「存乎人者。莫良於眸子。眸子不能掩其悪。胸中正。則眸子瞭焉。胸中不正。則眸子眊焉。」(人に存するものは眸子より良きは莫し。眸子は其の悪を掩ふこと能はず。胸中正しければ、則ち眸子瞭かなり。胸中正しからざれば則ち眸子眊し。)と、孟子一家の人物観察法を説かれて居る。即ち孟子の人物観察法は人の眼によつて其人物の如何を鑑別するもので、心情を正しからざるものは何となく眼に曇りがあるが、心情の正しいものは眼が瞭然して淀みが無いから、之によつて其の人の如何なる人格なるやを判断せよといふにある。この人物観察法も却〻確的の方法で、人の眼を能く観て置きさへすれば、その人の善悪正邪は大抵知れるものである。
子曰。視其所以。観其所由。察其所安。人焉廋哉、人焉廋哉。【為政第二】
(子曰く、其の為す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ隠くさんや、人焉んぞ隠くさんや。)
 初見の時に人を相する佐藤一斎先生の観察法や、人の眸子を観て其人を知る孟子の観察法は、共に頗る簡易な手つ取り早い方法で、是れによつても大抵は大過なく、人物を正当に識別し得らるゝものであるが、人を真に知らうとするには斯る観察法では臻らぬ処があるから、茲に挙げた論語「為政」篇の章句の如く、視、観、察の三つを以て人を識別せねばならぬものだといふのが孔夫子の遺訓である。
 「視」も「観」も共に「ミル」と読むが、「視」は単に外形を肉眼によつて見るだけの事で、「観」は外形よりも更に立ち入つて其奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見る事である。即ち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まづ第一に、其人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相し、それより其人の行為は何を動機にして居るものなるやを篤と観、更に一歩を進めて、其の人の安心は何れにあるや、其の人は何に満足して暮して居るや等を知ることにすれば、必ず其人の真人物が明瞭になるもので、如何に其の人が隠さうとしても、隠し得られるものではないといふにある。如何に外部に顕れる行為だけが正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、その人は決して正しい人であるとは謂へぬ。時には悪を敢てする事無しとせずである。又外部に顕れた行為も正しく、之が動機となる精神も亦正しいからとて、若しその安んずる所が飽食暖衣逸居するに在りといふやうでは、時に誘惑に陥つて意外の悪を為すやうにもなるものである。故に行為と動機と満足する点との三拍子が揃つて正しくなければ、其人は徹頭徹尾永遠までも正しい人であるとは申しかねるものである。
子曰。温故而知新。可以為師矣。【為政第二】
(故きを温ねて新しきを知れば、以て師となるべし。)
 兎角、新しきを追へば故きを忘れて沈着なる所なく、之に反し故事にのみ拘泥して居れば新しきを取らずして因循姑息に流れ、固陋に傾き易いのが万人陥る通弊である。青年子弟諸君は深く此の消息に注意し、新しきを追ふも故きを忘れず、故きを温ぬるも進取の気性を失はず、故きに就て新しきを学ぶやうにせねばならぬものである。
 祖先崇拝といふことも、其精神とする処は畢竟するに温故知新に外らぬもので、祖先のした偉業に就て学び、大に自ら啓発せられんとするにある。長上を尊敬せねばならぬといふ事も、是又温故知新の一種で、自分より先に此の世の中に出て此の世の中に働き、自分よりも久しい経験のある人々に就て学び、新に進まんが為の資を得んとする趣旨に外ならぬ。
 私が新政府に仕官して後に、大隈伯の所謂八百万の神々をして神はかりにはからしめる目的で設けられた大蔵省の改正掛に於ては、私なぞ主として種々の提案を致したものであるが、その精神とする処は、一に孔夫子の論語に教へられた温故知新の義を体し、明治御新政の運転を円滑ならしめ、所謂「為師」整然たる制度を立てんとするにあつたのである。改正掛に於て私が発案した種々の改正事業のうちでも、最も困難に感じたのは、従来租税が現物即ち米穀で納入せられて居つた制度を改正して、現金で納入せしむるやうに致さうといふのにあつた。
 御一新後と雖も、私が大蔵省に入つた時は、まだ租税が総て米穀によつて納入せられ、その納入せられた米を、官庁が官庁の手で船を艤装し之に積み込んで東京とか大阪とかの都会まで持ち出し、東京で申せば浅草蔵前の米倉だとか、又大阪にも大阪で同じく官庁所属の米倉があつて、之に入れ、それから、当時「札差し」と称せられた御用商人に命じて総て之を売捌かしめ、漸く現金になつた処で始めて国庫に現金が入るといふ組織であつたのである。
 然るに、俄に米穀で租税を納入する制度を廃し、総て現金で納めさせる事にすれば、地方の米穀産地では租税に向けるべき米穀を其地方で売り捌いてしまふ事が困難な為に、地方に於ける米穀の値段は供給過剰で自然下落することになる。又東京とか大阪とかの都会では、従来の如く米穀がドシ〳〵移入せられて来ぬので供給不足となり、米穀の値段が非常に差を生ずるに至る恐れがあつた。
 この心配を取り除かうとすれば、地方に於ける過剰米穀を東京とか大阪とかの都会に移出して売捌く事の能きるやうに、民間の為に官庁が米穀運搬の世話を焼てやるまでにして、船なども準備せねばならぬといふ事情もあり、旁〻現物納入を廃して現金納入に変ずる新租税制度は私の発案したものではあるが、却〻実行が六ケしく、その中私も明治六年には官途を退くことになつたものだから、現金納税制度は良い方法であると知られつゝも実施せられず、私の退官後明治七年に至り、故陸奥宗光伯が租税頭となるに及んで漸く実施せられる事になつたのである。これによつて考へて見ても、如何に故例を壊さず新しきに進むといふ事が困難のものであるかが知り得られるだらうと思ふ。
子曰。君子不器。【為政第二】
(子曰く、君子は器ならず。)
 孔夫子は、君子は器物の如きもので無いと仰せられてある。苟も人間である以上は、之を其技能に従つて用ひさへすれば必ず其用をなすものであるが、箸には箸、筆には筆と夫々其器に従つた用があるのと同じやうに、凡人には唯それぞれ得意の一技一能があるのみで、万般に行き亘つたところの無いものである。然し、非凡な達識の人になると一技一能に秀れた器らしい所が無くなつてしまひ、将に将たる奥底の知れぬ大きな所のあるものである。
 大久保利通公は私を嫌ひで、私は酷く公に嫌はれたものであるが、私も亦、大久保公を不断でも厭な人だと思つて居つたことは、前にも申述べて置いた如くである。然し、仮令、公は私に取つて虫の好かぬ厭な人であつたにしろ公の達識であつたには驚かざるを得なかつた。私は大久保卿の日常を見る毎に、器ならずとは、必ずや公の如き人を謂ふものであらうと、感歎の情を禁じ得なかつたものである。
 大抵の人は、如何に識見が卓抜であると評判せらるゝほどでも、其の心事の大凡は外間から窺ひ知られるものであるが、大久保卿に至つては、何処辺が卿の真相であるか、何を胸底に蔵して居られるのか、不肖の私なぞには到底知り得らるゝもので無く、底が何れぐらゐあるか全く測ることの能きぬ底の知れない人であつた。毫も器らしい処が見えず、外間から人をして容易に窺ひ得せしめなかつた非凡の達識を蔵して居られたものである。私も之には常に驚かされて「器ならず」とは大久保卿の如き人のことだらうと思つてたのである。底が知れぬだけに又卿に接すると何んだか気味の悪いやうな心情を起させぬでも無かつた。之が私をして、何となく卿を「厭やな人だ」と感ぜしめた一因だらうとも思ふ。
 西郷隆盛公は、是れも却〻達識の偉い方で、器ならざる人に相違ないが、同じく器ならずでも、大久保卿とは余程異つた所のあつたものである。一言にして謂へば、頗る親切な同情心の深い人で、如何にせば他人の利益を計ることが能きようかと、他人の利益を計らう〳〵といふ事ばかりに骨を折つて居られたやうに、私は御見受け申したのである。
 彼の山岡鉄舟先生が、江戸城からの使者で駿府の征東総督府を訪ひ隆盛公に会つた時に、慶喜公を備前に御預けにしようといふ提議に対し不承知を唱へると、公が山岡先生の情を酌み、即座に山岡先生の議を入れて、備前に御預けの事は廃めにしようと快く一諾の下に引受けられたなぞは、全く隆盛公が凡庸の器で無く、深い達識のあつた、器ならざる大人物たるの致した所だらうと思ふが、畢竟するに他人の利益を計つてやらう〳〵との親切な同情が深くあらせられたからの事であらうと存ずる。又私の観る所を以てすれば、隆盛公には其初め幕府政治を全く廃止してしまはれようとの気はなかつた如くに思はれる。
 西郷隆盛公とても、素より徳川幕末の制度組織では、到底今後の政治を円滑に行つてゆかれるもので無い事には気が付かれて居つたに相違ないが、唯幕府に従来あつた御老中制度を廃止し、之を年寄制度に改めて諸藩の新しい人材を年寄として召し集め、幕府政治を行つてゆきさへすれば、それで容易に国政の改革を断行し得られるものと信ぜられ、強ひて幕府を倒す必要が無いと考へられて居つたやうに思はれる。私が前回までのうちにも申述べ置いた如く、一旦徳川幕府が倒れても、今日となつて観れば誠に畏れ多い次第だが、御親政の御代とならず、必ずや豪族政治になるものだらうと愚考して、一橋慶喜公が第十五代の征夷大将軍になられるのに反対したのも、実は西郷隆盛公に如何しても徳川幕府を潰してしまはねばならぬとの御意志が無いものと看取したからの事である。
 隆盛公の御平常は至つて寡黙で、滅多に談話をせられることなぞの無かつた方であるが、外間から観た所では、公が果して賢い達識の人であるか、将た鈍い愚かな人であるか一寸解らなかつたものである。此点が西郷隆盛公の大久保卿と違つてたところで、隆盛公は他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気が付かず、その代り他人に賞められたからとて素より嬉しいとも悦ばしいとも思はず、賞められたのにさへ気が付かずに居られるやうに見えたものである。何れにしても頗る同情心の深い親切な御仁にあらせられて、器ならざると同時に又将に将たる君子の趣があつたものである。
 木戸孝允卿は同じく維新三傑のうちでも大久保卿とは違ひ、西郷公とも異つた所のあつたもので、同卿は大久保卿や西郷隆盛公よりも文学の趣味が深く、且つ総て考へたり行つたりすることが組織的であつた。然し器ならざる点に於ては大久保、西郷の二傑と異なるところが無く、凡庸の器に非ざるを示すに足る大きな趣のあつたものである。
 勝伯とても素より達識の方で、凡庸の器でなかつたには相違ないが大久保、西郷、木戸の三傑に比すれば、何れかと謂ふに、余程器に近い所があつて、器ならずとまでには行かなかつたやうに思はれる。
 其他、伊藤公或は現に御存命の山県公にしろ、井上侯にしろ、松方侯にしろ、将た大隈伯にしろ、あれまでに成られる方々の事故、何れも凡人と違ふ秀れた所のある人々であらせられるに相違ないが、維新三傑の如く、器ならざる方々にあらせられるや否や、之は現下私から申述べるのを御遠慮申上げることにする。なほ、是等の方々の外に現今の政治界にも実業界にも器ならざる大人物があるのは必定で、器ならざる大人物は、維新の三傑に限られたわけでないが、現在の人物に就て批評がましい愚見を述べるのは憚るべきであらうから申上げぬ事に致し、維新の三傑は流石に三傑と崇められるだけであつて、異つた所のあつたものだといふことだけを申述べて置く。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.670-676
底本の記事タイトル:一九七 竜門雑誌 第三二九号 大正四年一〇月 : 実験論語処世談(五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第329号(竜門社, 1915.10)
初出誌:『実業之世界』第12巻第15号(実業之世界社, 1915.08.01)