デジタル版「実験論語処世談」(5) / 渋沢栄一

10. 器ならざりし大久保利通

きならざりしおおくぼとしみち

(5)-10

子曰。君子不器。【為政第二】
(子曰く、君子は器ならず。)
 孔夫子は、君子は器物の如きもので無いと仰せられてある。苟も人間である以上は、之を其技能に従つて用ひさへすれば必ず其用をなすものであるが、箸には箸、筆には筆と夫々其器に従つた用があるのと同じやうに、凡人には唯それぞれ得意の一技一能があるのみで、万般に行き亘つたところの無いものである。然し、非凡な達識の人になると一技一能に秀れた器らしい所が無くなつてしまひ、将に将たる奥底の知れぬ大きな所のあるものである。
 大久保利通公は私を嫌ひで、私は酷く公に嫌はれたものであるが、私も亦、大久保公を不断でも厭な人だと思つて居つたことは、前にも申述べて置いた如くである。然し、仮令、公は私に取つて虫の好かぬ厭な人であつたにしろ公の達識であつたには驚かざるを得なかつた。私は大久保卿の日常を見る毎に、器ならずとは、必ずや公の如き人を謂ふものであらうと、感歎の情を禁じ得なかつたものである。
 大抵の人は、如何に識見が卓抜であると評判せらるゝほどでも、其の心事の大凡は外間から窺ひ知られるものであるが、大久保卿に至つては、何処辺が卿の真相であるか、何を胸底に蔵して居られるのか、不肖の私なぞには到底知り得らるゝもので無く、底が何れぐらゐあるか全く測ることの能きぬ底の知れない人であつた。毫も器らしい処が見えず、外間から人をして容易に窺ひ得せしめなかつた非凡の達識を蔵して居られたものである。私も之には常に驚かされて「器ならず」とは大久保卿の如き人のことだらうと思つてたのである。底が知れぬだけに又卿に接すると何んだか気味の悪いやうな心情を起させぬでも無かつた。之が私をして、何となく卿を「厭やな人だ」と感ぜしめた一因だらうとも思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(5) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.670-676
底本の記事タイトル:一九七 竜門雑誌 第三二九号 大正四年一〇月 : 実験論語処世談(五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第329号(竜門社, 1915.10)
初出誌:『実業之世界』第12巻第15号(実業之世界社, 1915.08.01)