デジタル版「実験論語処世談」(5) / 渋沢栄一

5. 私の人物観察鑑別法

わたしのじんぶつかんさつかんべつほう

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 佐藤一斎先生は、人と始めて会つた時に得た印象によつて其の人の如何なるかを判断するのが、最も間違ひの無い正確な人物観察法なりとせられ、先生の著述になつた「言志録」の中には「初見の時に相すすれば人多く違はじ」といふ句さへある。始めて会つた時に能く其の人を観れば一斎先生の言の如く多くは誤たぬもので、度々会ふやうになつてからする観察は考へ過ぎて却つて過誤に陥り易いものである。始めて御会ひした初見の時に、この方は大抵斯んな方だな、と思うた感じには、いろ〳〵の理窟や情実が混ぜぬから至極純な所のあるもので、その方が若し偽り飾つて居らるれば、その偽り飾つて居られる所が、初見の時にはチヤンと当方の胸の鏡に映つてアリ〳〵と見える事になる。然し度々御会ひするやうになると、アヽで無いカウであらうなぞと、他人の噂を聞いたり理窟をつけたり、事情に囚はれたりして考へ過ぎることになるから、却て人物の観察を過まるものである。
 又孟子は「孟子」巻五七離婁章句上に「存乎人者。莫良於眸子。眸子不能掩其悪。胸中正。則眸子瞭焉。胸中不正。則眸子眊焉。」(人に存するものは眸子より良きは莫し。眸子は其の悪を掩ふこと能はず。胸中正しければ、則ち眸子瞭かなり。胸中正しからざれば則ち眸子眊し。)と、孟子一家の人物観察法を説かれて居る。即ち孟子の人物観察法は人の眼によつて其人物の如何を鑑別するもので、心情を正しからざるものは何となく眼に曇りがあるが、心情の正しいものは眼が瞭然して淀みが無いから、之によつて其の人の如何なる人格なるやを判断せよといふにある。この人物観察法も却〻確的の方法で、人の眼を能く観て置きさへすれば、その人の善悪正邪は大抵知れるものである。

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キーワード
渋沢栄一, 人物, 観察, 鑑別
デジタル版「実験論語処世談」(5) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.670-676
底本の記事タイトル:一九七 竜門雑誌 第三二九号 大正四年一〇月 : 実験論語処世談(五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第329号(竜門社, 1915.10)
初出誌:『実業之世界』第12巻第15号(実業之世界社, 1915.08.01)