デジタル版「実験論語処世談」(5) / 渋沢栄一

6. 孔夫子の人物観察法

こうふうしのじんぶつかんさつほう

(5)-6

子曰。視其所以。観其所由。察其所安。人焉廋哉、人焉廋哉。【為政第二】
(子曰く、其の為す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ隠くさんや、人焉んぞ隠くさんや。)
 初見の時に人を相する佐藤一斎先生の観察法や、人の眸子を観て其人を知る孟子の観察法は、共に頗る簡易な手つ取り早い方法で、是れによつても大抵は大過なく、人物を正当に識別し得らるゝものであるが、人を真に知らうとするには斯る観察法では臻らぬ処があるから、茲に挙げた論語「為政」篇の章句の如く、視、観、察の三つを以て人を識別せねばならぬものだといふのが孔夫子の遺訓である。
 「視」も「観」も共に「ミル」と読むが、「視」は単に外形を肉眼によつて見るだけの事で、「観」は外形よりも更に立ち入つて其奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見る事である。即ち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まづ第一に、其人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相し、それより其人の行為は何を動機にして居るものなるやを篤と観、更に一歩を進めて、其の人の安心は何れにあるや、其の人は何に満足して暮して居るや等を知ることにすれば、必ず其人の真人物が明瞭になるもので、如何に其の人が隠さうとしても、隠し得られるものではないといふにある。如何に外部に顕れる行為だけが正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、その人は決して正しい人であるとは謂へぬ。時には悪を敢てする事無しとせずである。又外部に顕れた行為も正しく、之が動機となる精神も亦正しいからとて、若しその安んずる所が飽食暖衣逸居するに在りといふやうでは、時に誘惑に陥つて意外の悪を為すやうにもなるものである。故に行為と動機と満足する点との三拍子が揃つて正しくなければ、其人は徹頭徹尾永遠までも正しい人であるとは申しかねるものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(5) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.670-676
底本の記事タイトル:一九七 竜門雑誌 第三二九号 大正四年一〇月 : 実験論語処世談(五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第329号(竜門社, 1915.10)
初出誌:『実業之世界』第12巻第15号(実業之世界社, 1915.08.01)