デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.333-339

陳司敗問。昭公知礼乎。孔子曰。知礼。孔子退。揖巫馬期而進之曰吾聞君子不党。君子亦党乎。君取於呉。為同姓。謂之呉孟子。君而知礼。孰不知礼。巫馬期以告。子曰。丘也幸。苟有過。人必知之。【述而第七】
(陳の司敗問ふ。昭公礼を知るかと。孔子曰く、礼を知れりと。孔子退く。巫馬期を揖して之を進めて曰く、吾れ聞く君子は党せずと君子も亦党するか。君呉に取《めと》る、同姓たり、之を呉孟子と謂ふ。君にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。巫馬期以て告ぐ。子曰く丘や幸なり。苟も過あれば、人必ず之を知らす。)
 陳の国の司敗と申す官名(冠を司る役)の者が、孔夫子を一つ試験してやらうといふ気から、孔夫子を困らせるつもりか何かで「一体、貴公の国魯の国王たる昭公は礼を知つてる人か何うか」と突然質問を孔夫子に対つて発したのである。その意は、呉も魯も共に姫姓で同姓の国であり、礼に於ては同姓相娶るを禁じあるにも拘らず昭公がこの禁を破つて呉より夫人を娶り、その姫姓の出なるを隠さんとして殊更ら夫人を称ぶに呉孟姫を以てせず、特に呉孟子の称を以てするなぞ、昭公の行為が礼に悖るところあるを司敗は知つてたので、孔夫子が之に対し如何なる態度に出られるか――その様子によつて、孔夫子の人物も大体明かにならうといふにあつたのだ。孔夫子は斯る魂胆が司敗にあると知つてか知らずでか、「昭公は礼を知つて居られる」と答へられたのである。そこで、孔夫子が御退出に成つてから、司敗は御弟子の巫馬期と申す者を喚び寄せ、之に「揖」と称する挨拶、即ち両手を胸の前に合せて上下する礼を施し、さて其の後に昭公の夫人が同姓である一件を持ち出して「かく礼を知らざる所行が昭君にあるにも拘らず、自分の君であるからとてその非を隠し、党を樹つるが如き態度に出で、昭君を以て礼を知れるもの也となすは、君子ともあらう孔子に似合はぬ甚だ以て怪しからぬ申分である」ときめつけたのだ。この由を巫馬期から更に孔夫子へ御伝へ致すと、孔夫子は「それは忝い。司敗といふ人も誠に御親切な方である。丘の過失を態々忠告して下さるとは。丘も余ほどの果報者だ」と仰せになつたといふのが茲に掲げた章句の意味である。
 孔夫子とても昭君が魯と同姓の呉から夫人を迎へられたのは礼に悖る所行であるくらゐの事を知つて居られぬ筈は無い、明かに知つて居られたのだ。然し他国へ行つて我が主君を「礼を知らざる者なり」といつてしまふのは、君臣の情として忍び難しとするところである。依て、敢て党を樹て非を隠さうといふのでは無いが、前条にも一寸申述べ置いた「父は子の為に隠し子は父の為に隠す。直き事其中にあり」と仰せられたのと同一趣意から、昭君には夫人の事に就て礼に悖るところあるを知つて居られたにも拘らず、孔夫子は昭君が我が主君に当る故を以て「礼を知れり」と明瞭り答へられてしまつたのである。さればとて、孔夫子は之によつてウソを吐かれたのでは無い。夫人の件に就ては仮令礼に悖るところがあつても、大体に於て昭君は礼を知つてる人であるから、孔夫子も「礼を知れり」と答へられたもので、若し昭君が全く礼を知らぬ無茶苦茶な人物であつたとしたら、如何に我が主君でも、孔夫子は昭君を以て礼を知れる者なりとして御答へにはならなかつたらうと思ふ。
 世の中のウソには善いと悪いとの二タ通りあつて、孔夫子が司敗の問に応じて与へられた答弁の如きウソは、素と主君を保護せんとする精神から出た善い種類のウソであるから、斯んな善い種類のウソなばら[ならば]、いくら吐いても拘はぬといふ如き論を立つれば、大変に世間の人を過る恐れがある。ウソには善いウソも悪いウソも無く、ウソは総て皆悪いものだとして置くべきだ。ウソは如何なる種類のものでも、之を吐くのは絶対に悪い事である。孔夫子が司敗の問ひに対せられた場合なぞにも、決してウソを以て答弁をせられたのでは無い。ただ「直き」を以て答へられたまでだ。それから又、司敗が孔夫子を一つ試験してみようとか、困らしてやらうとかと、悪意を以て孔夫子に対したる際、孔夫子は之を善意に解釈して、毫も司敗を罵るとか責めるとかいふ事をなされず、自分の欠点を見つけ出して忠告してくれるとは難有いと、何気なく軽く受け流してしまはれた処にも、孔夫子の偉大なところがある。如何に孔夫子をやり込めてやらうと赤身を張つて向つてきても、斯う軽く善意に解釈して受け流されてしまへば、到底太刀打のできぬやうになつてしまふものだ。この点は御互に大に学んで然るべき事だらうと思ふ。
 茲に掲げた章句にある「」は、今日の政友会とか憲政会とか国民党とかいふ如き政党の「党」とは全く其の意義を異にし、互に非を隠して結び合ひ、之によつて各自の利益を計らうとする事で、我が仲間以外の者は之を排斥し、何事でも我が仲間だけで行つてゆかうといふ同党伐異の精神が、是れ即ち党心である。この党心が薩長の人達には頗る強いのだ。殊に長州人に於てそれが強いかのやうに思はれる。薩長の人達は同国人ならば仮令之に非行があつても無理に掩蔽して隠さうとし、力めて之を公けにせぬやうにする。又、人を用ゐるに当つても、同等の力量ぐらゐのものならば、先づ同国人を先きに用ゐるやうにするのが薩長人の特色だ。然るに旧幕の人達は全然之れの反対で、至つて党心少く、非を隠してまでも仲間の栄達を計らうなんかといふ私心が無かつたもんだから、維新後になつても甚だ振はず、薩長人に押し込められるやうな事に成つてしまつたのである。伏見鳥羽の戦争なんかでも、薩人に強い党心があつて、うまく団結し、衆議一途に出で得られたから勝つたもので、若し薩人に強い党心が無かつたら迚もあの戦争をしても勝てなかつたらう。
 長州の毛利元就が臨終の際に子息等を寄せ、十本の矢を束ねて之を折るべく命じ、その到底折り得られざるを見るや、それを題材にして団結力の偉大なる力ある所以を遺言した一事は、小学の読本にまで載つてるほどで有名な逸話だが、長州人は那的元就の遺訓を誰でもみな能く守ることに骨折り、非常にそれを尊崇して居るのである。随つて長州人は薩州人よりも一層団結力に富み、党心が強くなつてるかの如くに見受けられる。全く長州人は団結力の強い人達だ。蓋し元就の遺訓が之を然らしめたものだらう。開国論の方から謂へば幕府方が素と早くより之を主張したもので、長州が開国論に傾くやうになつたのは伊藤、井上など泰西から帰つてきた連中が開国を説き出してからあとの事である。然るにも拘らず、開国になつてからの維新後に、幕府方の人達を押し除けて、其勢力を張り、明治の政治舞台へ活躍し得らるるやうになつたのは、全く長州人に党心があつて団結力の強い為である。薩州とても長州に比してこそ開国論に於て稍古くはあれ、幕府に比すれば猶且晩いのだ。長州にしても薩州にしても、維新後に至つて勢力が昂がつたのは、泰西の文明を早く取り入れたからで無い。全く仲間の非を隠して助け合ひ、同国人を用ゐ合ふ事に力を入れ、飽くまで党を樹てて団結を強くしたからである。
 それから、維新前後には薩長にばかり人物があつて、幕府側に人物が無かつたといふに爾うでも無い。水戸にも会津にも却〻相当の人物があつたのだ。水戸の藤田東湖は私は親しく遇はなかつたから深くは知らぬが、余程の人物であつたらしく、若し東湖にして安政の地震で非業の死を遂ぐる如きことなく、幸に長命したら、或は水戸一国の輿論を纏めて一大勢力を作り、維新と維新後の舞台に活躍し得られたかも知れぬ。東湖の四男藤田小四郎には前条にも申して置いたやうに、私も親しく遇つたこともあるが、非凡の智慧者で、珍らしい人材であつた。其他、梅沢孫太郎にしろ、原市之進にしろ、長谷川作十郎にしろ野村彝之助にしろみな凡ならざる人材であつたと謂へる。これらの人人が一致団結し、党を樹てて維新前後に活躍したら、水戸とても那的に馬鹿にしたもので無く相当の勢力を張り得られたらう。
 私は従来も申述べ置ける如く、平岡円四郎の推薦により同姓喜作と共に元治元年二月、一橋慶喜公へ仕へる身分になつたのであるが、幕府に於ては、同年三月に至り、外国の侵略に備へ、皇室の御安泰を計る趣意から、一橋慶喜公を禁裡御守衛総督に任命することになつたのだ。その結果私も慶喜公に従ひ京都に於て諸藩の志士と交際することになり、殊に当時蛤御門の守衛に当つてた会津藩の名士とは能く交際する機会を得たので、充分知つてるが、会津にも却〻その頃は人傑の多かつたものである。外島機兵衛、野村作兵衛、手代木直右衛門、秋月悌次郎、広沢富次郎などが其れで、孰れも立派な人物であつた。中にも秋月、広沢の両人は余程の学者で、尊敬すべき人物であつたのである。会津人は水戸人と違つて相当に団結力もあつたのだが、薩長の如く維新前後に勢力を張り活躍し得なかつたのは、必ずしも人物に乏しかつたからでは無い。維新前の大勢が倒幕に傾いて居つたにも拘らずこの大勢に逆行し、佐幕党になつたからである。之に反し、薩長は倒幕の大勢を利用し、之に乗つて活動したもんだから順風に帆を揚げたのも同じで、頗る順調に其の勢力を発展し得られたのだ。
 兎角旧幕人は、江戸ツ子気質とでもいふべきだらうか、人間の柄が皆サッパリして居つて、同党伐異の気風が無いのである。どちらかと謂へばいづれも無慾恬淡で、ネバリツ気が無い。それが為開国の是非なぞに就ては幕府側の者に薩長人よりも遥に先見の明があつたにも拘らず、却つて維新後になつてからまでも薩長人に敗けてしまはねばならぬ事になつたのである。
子与人歌而善。必使反之。而後和之。【述而第七】
(子、人と歌ひて善ければ、必ず之を反さしめて、後之に和す。)
 茲に掲げた章句によつても明かなる如く、孔夫子は単に楽を重んじ楽を解する力があつたのみならず、又御自身に於ても楽に堪能であらせられたのである。それだもんだから、多人数一緒に成つて詩を歌つてる際に、一人誰か際立つて上手に歌ふものがあれば之に独唱を命ぜられ、それから一緒に成つて孔夫子御自身も歌はれたものであるといふのがこの章句の意味だ。孔夫子が聖人であると謂へば、如何にも窮屈の御仁であつたかの如くに聞えるが、決して爾うで無い。衆と共に嬉々として詩を歌はるる如きこともあつたのだ。然し、その場合にも聖人は飽くまで聖人で、独り得意になつて御自分の咽喉を聴かせようなんかとはなさらず、上手に歌ふものがあれば、その人の名誉の為に之に独唱を申付けられて謹聴し、それから一緒に成つて歌はるるといふ順序を取られたのである。茲にも孔夫子が他人の美を揚ぐるを好む聖人の美徳を、遺憾無く発揮して居られるのである。
 私の知つてる人のうちで、井上侯なんかは音楽を好み、音楽を解することのできた人で、常盤津と清元との別ぐらゐは聴き分け得たのみならず、自分でも多少は何か唄へたのである。花柳の巷で芸者を対手に遊ぶ時なぞは至つて悪戯好きの我儘者で、知人のうちに芸者と出来合つた男でもあると、別に悪意でも何でも無いが、その男の細君を焚き付けて良人を苦しめさせたりなんかし、家庭に風波を起させ、之を何喰はぬ顔で傍観し、面白がつて楽んだりして居つたものだ。それから、男が二人以上の芸者と関係が出来でもすれば、彼処の芸者にも焚き付け、此処の芸者にも焚き付け、両方に嫉妬の競争をさせたり、或は喧嘩をさせたりなんかして、男を両方の芸者の板挟みに会はせ、ウンウン困らせて、外部で知らぬ顔をしながら、悦んでるといふやうな事もあつた。私なんかも若くつて遊んでる時分には大分井上侯の這的悪戯に困らされたものである。
 伊藤公は井上侯と違つて、常盤津と清元との別さへ判らぬ、音楽には殆んど耳が無いと謂つてもよいほどの人であつたが、芸者なんかを聘んでも別に之れといふ話をするんでも無く、至つて無口であつたのである。それであり乍ら、花柳界での遊びは至つて我儘の方で、沢山来た芸者のうちに気に入つたのが見付かると、他人の前だからとて遠慮するなんかといふ気配は露些かも無く、一向御構ひ無しに、その気に入つた芸者を拉し、何処へか雲隠れてしまふのが公の奥の手であつたものだ。たしか明治四年であつたと思ふが、私が大阪へ行つた時に伊藤公に伴れられて兵庫で遊んだ事がある。之より先き公は曾つて兵庫県に県令をして居つたことがあるので、兵庫ならば自分の勢力範囲も同然、何うにでもなるから兵庫で遊ぼうといふので私も伴れられて出かけたのだが、その時に公は「渋沢といふ男は堅苦しい一方で、直ぐ鯉口でも抜きにかかる人とばかり思つてたのに、芸者買ひができるとは存外話せる」なんかと笑ひながら閑談せられてあつたやうに記憶する。私も若い元気な頃には相当によく遊んで芸者なぞとの噂も立てられたものだ。敢て自分の不身持を弁解して他人へ罪をなすり付けるわけでもないが、それには大分井上侯と伊藤公との感化があるのだ。
 私はこれでも音楽は少し解る方だ。芸者の唄つてるものを聴いても直ぐ拙いか巧いかの見当はつく。若い時分には芸者から教へられて少しは自分で唄ひもしたもので、義太夫、長唄、常盤津、清元、一中節ぐらひの別は知つてるのだ。就中、義太夫の方ならば之に就ての話もできれば、又少し自分で演れもする。身を入れて稽古に勉強したら一段ぐらゐは語れぬでも無からうと思ふ。私が斯く義太夫に趣味を持ち義太夫を多少理解し、少しぐらゐは語るといふほどに成つてるのは、郷里の血洗島と申す地方が、大層義太夫の流行る土地で、亡父も大変義太夫を好き、田舎義太夫ではあるが兎に角相当に語れたもんだから慰みに其処此処と語つて歩いたりなんかしたので、自然幼少の頃より其の感化を受けた結果である。
 今の帝国劇場を創立するのに私が多少骨を折るやうに成つたのは、私が多少芸事を解るからでもあるが、その趣意とする処は帝国ホテルを設立するに尽力したのと同一で、外国貴賓の来朝せられた際にその観覧を仰ぐべき演芸の場所が無いから、之に利用し得らるる建物を一つ設けて置きたいと思つたのと、又一には、之によつて演劇改良の道を講じたいと思つたからだ。素と演劇改良論は風俗改良会から起つたもので、福地桜痴なぞが切りに之を唱道し、当時福地は私に勧め「自分は技芸方面を担当するから、渋沢は経営やら事務の方を受け持つてくれ」と云ふ事であつたのである。私はそれも可からうといふので、その気に成つてるうち、福地は自分で歌舞伎座なんかに関係し、俳優や興行師とも密接の間柄となり、全く芝居道の人に成つてしまつたのである。それでは、演劇改良事業に福地を親しく関係さしては却て面白く無いからとの事で、この事業も、一時沙汰止みに成つてしまつたのだ。
 然るに、福沢諭吉氏が其の発頭人に成つたわけでもあるまいが、福沢捨次郎氏其他、慶応義塾出身の人々が意見を纏めて、明治三十九年頃、伊藤公の許へ押しかけて行き、是非演劇改良の事業に力を添へてくれよと相談を持ちかけたのである。その結果、築地の瓢家で会合し色々と話を進めたのだが、会合の当日私は折悪しく箱根に行つて出席しかねたもんだから、その罰だといふので、席上委員を選んだ際に私は委員長を仰せ付けられたのである。東京に帰つて伊藤公より斯の趣を聞知し、是非それを受諾せねばならぬ事になつたので、帝国劇場の設立に力を尽すに至り、資本金を百万円として始めたのだが、最初はオペラ懸つたものを上演する予定であつたにも拘らず、それでは迚も経営ができかねるからといふので、西野恵之助氏が最初の専務取締役となつて諸事を切り廻し、結局今日の如き状態に落着いたのである。幸に昨今では帝国劇場も経営上に左までの困難を感ぜぬやうに成つたから誠に仕合せに思つてるが、外部の形式だけは進歩しても内容の進歩之に伴はず、予期の如く之によつて演劇改良の実を挙げ得ぬ憾みが無いでも無い。然し、多少なりとも設備其他に於て、帝劇が日本の演劇改良に貢献したところはあらうと思ふのだ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.333-339
底本の記事タイトル:二八一 竜門雑誌 第三六九号 大正八年二月 : 実験論語処世談(第四十三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第369号(竜門社, 1919.02)
初出誌:『実業之世界』第16巻第2号(実業之世界社, 1919.02)