デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一

5. 伊藤・井上の遊び振り

いとう・いのうえのあそびぶり

(43)-5

子与人歌而善。必使反之。而後和之。【述而第七】
(子、人と歌ひて善ければ、必ず之を反さしめて、後之に和す。)
 茲に掲げた章句によつても明かなる如く、孔夫子は単に楽を重んじ楽を解する力があつたのみならず、又御自身に於ても楽に堪能であらせられたのである。それだもんだから、多人数一緒に成つて詩を歌つてる際に、一人誰か際立つて上手に歌ふものがあれば之に独唱を命ぜられ、それから一緒に成つて孔夫子御自身も歌はれたものであるといふのがこの章句の意味だ。孔夫子が聖人であると謂へば、如何にも窮屈の御仁であつたかの如くに聞えるが、決して爾うで無い。衆と共に嬉々として詩を歌はるる如きこともあつたのだ。然し、その場合にも聖人は飽くまで聖人で、独り得意になつて御自分の咽喉を聴かせようなんかとはなさらず、上手に歌ふものがあれば、その人の名誉の為に之に独唱を申付けられて謹聴し、それから一緒に成つて歌はるるといふ順序を取られたのである。茲にも孔夫子が他人の美を揚ぐるを好む聖人の美徳を、遺憾無く発揮して居られるのである。
 私の知つてる人のうちで、井上侯なんかは音楽を好み、音楽を解することのできた人で、常盤津と清元との別ぐらゐは聴き分け得たのみならず、自分でも多少は何か唄へたのである。花柳の巷で芸者を対手に遊ぶ時なぞは至つて悪戯好きの我儘者で、知人のうちに芸者と出来合つた男でもあると、別に悪意でも何でも無いが、その男の細君を焚き付けて良人を苦しめさせたりなんかし、家庭に風波を起させ、之を何喰はぬ顔で傍観し、面白がつて楽んだりして居つたものだ。それから、男が二人以上の芸者と関係が出来でもすれば、彼処の芸者にも焚き付け、此処の芸者にも焚き付け、両方に嫉妬の競争をさせたり、或は喧嘩をさせたりなんかして、男を両方の芸者の板挟みに会はせ、ウンウン困らせて、外部で知らぬ顔をしながら、悦んでるといふやうな事もあつた。私なんかも若くつて遊んでる時分には大分井上侯の這的悪戯に困らされたものである。
 伊藤公は井上侯と違つて、常盤津と清元との別さへ判らぬ、音楽には殆んど耳が無いと謂つてもよいほどの人であつたが、芸者なんかを聘んでも別に之れといふ話をするんでも無く、至つて無口であつたのである。それであり乍ら、花柳界での遊びは至つて我儘の方で、沢山来た芸者のうちに気に入つたのが見付かると、他人の前だからとて遠慮するなんかといふ気配は露些かも無く、一向御構ひ無しに、その気に入つた芸者を拉し、何処へか雲隠れてしまふのが公の奥の手であつたものだ。たしか明治四年であつたと思ふが、私が大阪へ行つた時に伊藤公に伴れられて兵庫で遊んだ事がある。之より先き公は曾つて兵庫県に県令をして居つたことがあるので、兵庫ならば自分の勢力範囲も同然、何うにでもなるから兵庫で遊ぼうといふので私も伴れられて出かけたのだが、その時に公は「渋沢といふ男は堅苦しい一方で、直ぐ鯉口でも抜きにかかる人とばかり思つてたのに、芸者買ひができるとは存外話せる」なんかと笑ひながら閑談せられてあつたやうに記憶する。私も若い元気な頃には相当によく遊んで芸者なぞとの噂も立てられたものだ。敢て自分の不身持を弁解して他人へ罪をなすり付けるわけでもないが、それには大分井上侯と伊藤公との感化があるのだ。

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デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.333-339
底本の記事タイトル:二八一 竜門雑誌 第三六九号 大正八年二月 : 実験論語処世談(第四十三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第369号(竜門社, 1919.02)
初出誌:『実業之世界』第16巻第2号(実業之世界社, 1919.02)