デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一

1. 孔子難問を受く

こうしなんもんをうく

(43)-1

陳司敗問。昭公知礼乎。孔子曰。知礼。孔子退。揖巫馬期而進之曰吾聞君子不党。君子亦党乎。君取於呉。為同姓。謂之呉孟子。君而知礼。孰不知礼。巫馬期以告。子曰。丘也幸。苟有過。人必知之。【述而第七】
(陳の司敗問ふ。昭公礼を知るかと。孔子曰く、礼を知れりと。孔子退く。巫馬期を揖して之を進めて曰く、吾れ聞く君子は党せずと君子も亦党するか。君呉に取《めと》る、同姓たり、之を呉孟子と謂ふ。君にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。巫馬期以て告ぐ。子曰く丘や幸なり。苟も過あれば、人必ず之を知らす。)
 陳の国の司敗と申す官名(冠を司る役)の者が、孔夫子を一つ試験してやらうといふ気から、孔夫子を困らせるつもりか何かで「一体、貴公の国魯の国王たる昭公は礼を知つてる人か何うか」と突然質問を孔夫子に対つて発したのである。その意は、呉も魯も共に姫姓で同姓の国であり、礼に於ては同姓相娶るを禁じあるにも拘らず昭公がこの禁を破つて呉より夫人を娶り、その姫姓の出なるを隠さんとして殊更ら夫人を称ぶに呉孟姫を以てせず、特に呉孟子の称を以てするなぞ、昭公の行為が礼に悖るところあるを司敗は知つてたので、孔夫子が之に対し如何なる態度に出られるか――その様子によつて、孔夫子の人物も大体明かにならうといふにあつたのだ。孔夫子は斯る魂胆が司敗にあると知つてか知らずでか、「昭公は礼を知つて居られる」と答へられたのである。そこで、孔夫子が御退出に成つてから、司敗は御弟子の巫馬期と申す者を喚び寄せ、之に「揖」と称する挨拶、即ち両手を胸の前に合せて上下する礼を施し、さて其の後に昭公の夫人が同姓である一件を持ち出して「かく礼を知らざる所行が昭君にあるにも拘らず、自分の君であるからとてその非を隠し、党を樹つるが如き態度に出で、昭君を以て礼を知れるもの也となすは、君子ともあらう孔子に似合はぬ甚だ以て怪しからぬ申分である」ときめつけたのだ。この由を巫馬期から更に孔夫子へ御伝へ致すと、孔夫子は「それは忝い。司敗といふ人も誠に御親切な方である。丘の過失を態々忠告して下さるとは。丘も余ほどの果報者だ」と仰せになつたといふのが茲に掲げた章句の意味である。

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デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.333-339
底本の記事タイトル:二八一 竜門雑誌 第三六九号 大正八年二月 : 実験論語処世談(第四十三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第369号(竜門社, 1919.02)
初出誌:『実業之世界』第16巻第2号(実業之世界社, 1919.02)