デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一

8. 論語は矯弊説に非ず

ろんごはきょうへいせつにあらず

(42)-8

 「孟子滕文公章句下」に「楊朱墨翟の言、天下に盈つ。天下の言楊に帰せざれば則ち墨に帰す。楊氏が我が為にするは是れ君無きなり。墨氏が兼ね愛するは是れ父無きなり。父無く君無きは是れ禽獣なり」とあるが、楊子や墨子の説なんかも、要するに矯弊論だ。荀子の性悪説などといふものも猶且矯弊論である。余りに仁義の説が盛んになつて来れば之に反動して楊子の自我説起り、楊子の自我説盛んになれば之に反動して墨子の兼愛説起り、性善説に対して性悪説が起るといふやうな調子になるのが是れ学説の弊で、学説は兎角楯の両面を見ずして其の一面のみを見、彼是と理窟を捻ねくつて見たがるものである。当今はベルグソンとかいふ仏蘭西の学者の説が大層日本にも行はれて居るさうで、人は何でも自分で善いと稽へた事をさへ行へばそれでよろしいといふ議論が勢力を得て居ると云ふ事だ。
 人には皆良知良能のあるもの故、他人の不利益妨害になるやうな事を稽へて之を善いと思ふ筈は無いのだが、さて実際になると他人の不利益妨害になるやうな事をも、猶ほ善いと思つてる人間が随分世間には多いのである。人は自分の善いと稽へた事を行ひさへすれば、それで宜しいといふ段になれば、不心得な人は父を無みし、君を無みする如き所行をも猶ほ善いと稽へ、無茶苦茶な真似をするやうになる。それでは人間も禽獣も同じになつてしまふでは無いか。要するにこのベルグソンの学説とかいふものも一の矯弊論たるに過ぎぬもので、余り当世の人々が世間をばかり気にして自信に乏しくなつた弊を矯めんとするにあるのだ。然るに「論語」には毫も斯る反動的な矯弊的傾向を帯びた趣無く、悉く実際に処する意見ばかりである。ここが「論語」の西洋に於ける学者の意見に勝つて偉いところである。私が「論語」を担ぎ廻るのも、時勢が余りに物質的になつて来たから、之に反動して矯弊の目的でやつてるのでは無い。

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キーワード
論語, 矯弊, , 非ず
デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.327-333
底本の記事タイトル:二八〇 竜門雑誌 第三六八号 大正八年一月 : 実験論語処世談(第四十二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第368号(竜門社, 1919.01)
初出誌:『実業之世界』第15巻第22号,第16巻第1号(実業之世界社, 1918.12.01,1919.01)