デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一

2. 豪傑と漁猟の趣味

ごうけつとぎょりょうのしゅみ

(42)-2

 私は至つて無趣味の性質であるから、世間の或る人々の如く釣を楽むとか、猟を楽むとかいふ事は決して無い。さればとて殺生を絶対に忌んで、魚類鳥獣の肉を一切口にせぬわけでも無く、若い頃には網舟に伴れて行かれて、漁夫が網を打つのを見て一行と楽みを共にし、網に罹つた魚を食うた事もある。然し猟銃を肩にして狩猟に出たことなぞは絶対に無い。それでも鳥の肉も食へば獣の肉も亦歓んで喰べるのだ。狩猟は何んと申しても殺伐の風を帯びるもんだから、孰方かと謂へば、豪傑肌の人によつて悦ばるるもので、古来豪傑と称せらるるやうな人は、好んで狩猟をしたものである。西郷隆盛卿なんかも、豪傑であつたから頗る狩猟を好まれて居つたものらしく、征韓論の事で廟議と合はず、鹿児島へ帰臥せられて以来は、始終狩りばかりして日を送られて居つたとの事である。現に東京上野の桜雲台へ建てられてある西郷卿の銅像は、猟犬を伴れて狩猟に出られる時の姿である。然し西郷卿なんかの狩猟はあの通り大度量のあつた人だから、空巣狙ひをする如き卑怯な狩り方で無く、孔夫子の如く弋して宿を射らずといふ行き方のものであつたに相違無い。又、よし網を打つて魚を獲るにしても、根こそぎ網を使つて在るだけの魚はみな残らず漁つてしまふといふ流義では無かつたらう。堂々と大人物の度量を以て狩りもし又網を打たれた事であらうと想ふ。
 狩猟は、主として豪傑肌の人によつて歓ばれるが、釣は少しく之と其趣を異にし、主として思慮思案に耽ける傾向のある人によつて悦ばるるものだ。同じ殺生がかつた事でも、茲に狩と釣との間に著しい相違がある。太公望は志を得るまで、釣をして居つたとの事だが、茫然として糸を垂れてたのではあるまい。釣をしながら静に思索に耽り、天下の経綸を稽へてたのだらう。九代目団十郎も好んで舟に乗り、釣に出たものであるとの事だが、舞台の上の工夫から、技芸上の考慮、さては新狂言の台詞の暗誦までも海上に小舟を浮べて釣糸を垂れてる間にしたものであるとの事だ。釣は如何にも静寂なものであるから、思想を練つたり、思索に耽つたりするには誠に恰好の遊びであるらしく思へる。

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キーワード
豪傑, 漁猟, 趣味
デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.327-333
底本の記事タイトル:二八〇 竜門雑誌 第三六八号 大正八年一月 : 実験論語処世談(第四十二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第368号(竜門社, 1919.01)
初出誌:『実業之世界』第15巻第22号,第16巻第1号(実業之世界社, 1918.12.01,1919.01)