デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.327-333

子釣而不網。弋不射宿。【述而第七】
(子釣して網せず。弋して宿を射ず。)
 茲に掲げた章句も、猶且孔夫子が何事に於ても極端に走らず、常に中庸の心情を以て万事に処し居られたことを示したもので、孔夫子は網を打つて魚を漁るやうなことをせられなかつたからとて、絶対に魚を漁らなかつたといふのでは無く、一尾づつ釣竿を垂れて魚を釣り、之を祭りの用に供したり或は食養にせられたりしては居られたのだ。又、狩猟なぞに於ても同様で、絶対に猟をしなかつたといふのでは無い。矢を弦に懸けて射る「弋」はせられたが、栖に宿つてる鳥を撃ち取るやうな事はせられなかつたといふのである。かくの如く、一切殺生をせぬでも無く、又殺生をせられたからとて、無闇矢鱈に漁猟を行はず、其間にチヤンとした節度があつて、魚を漁るにも釣に止め、鳥を射るにも栖に宿まつて居らぬものに限られたといふところに、孔夫子の面目が躍如として顕はれてるやうに想はれる。
 孟子も「数罟汚池に入らず、斧斤時を以て山林に入る」と説いてるが、その趣意とする処は、猶且孔夫子の「釣して網せず、弋して宿を射ず」と仰せられたのと同じである。
 孟子の句にある「数罟」といふのは「根こそぎ網」のことで、この種の網を使つて魚の潜んでる水の濁つた池を掻き廻す事になれば、魚の種が絶えてしまふ恐れがある。それから山林の伐採を行ふにしても四時休むこと無く乱伐を行へば、如何なる山でも忽ち禿山となり、治水を乱すに至るは必然だ。依て、今日では漁猟にも一定の期間を設けて狩猟期を定めたり、何時から何時までは鮎を漁つてはならぬとか雀を獲つてはならぬとかとの規定を設け、森林の伐採なぞに就ても夫々の方式やら規則やらがあつて、乱伐を防ぎ、孰れにしても種を絶やさぬ事に骨折つてるが、これは期せずして孔夫子及び孟子の心懸けて居られたところに一致するものである。孔夫子が釣して網せず、弋して宿を射られ無かつたのは、果して魚類鳥獣の種を尊重し、これが繁殖を計らうとの御趣意から来たものか何うか稍〻疑問であるが、空巣狙ひをする如き卑怯の行動を避くる精神より、斯る方針に出られたものである事だけは頗る明かで、孔夫子にして若し今日行はるる根こそぎ網の如きものを見られたら、定めし之を排斥せられた事であらう。
 私は至つて無趣味の性質であるから、世間の或る人々の如く釣を楽むとか、猟を楽むとかいふ事は決して無い。さればとて殺生を絶対に忌んで、魚類鳥獣の肉を一切口にせぬわけでも無く、若い頃には網舟に伴れて行かれて、漁夫が網を打つのを見て一行と楽みを共にし、網に罹つた魚を食うた事もある。然し猟銃を肩にして狩猟に出たことなぞは絶対に無い。それでも鳥の肉も食へば獣の肉も亦歓んで喰べるのだ。狩猟は何んと申しても殺伐の風を帯びるもんだから、孰方かと謂へば、豪傑肌の人によつて悦ばるるもので、古来豪傑と称せらるるやうな人は、好んで狩猟をしたものである。西郷隆盛卿なんかも、豪傑であつたから頗る狩猟を好まれて居つたものらしく、征韓論の事で廟議と合はず、鹿児島へ帰臥せられて以来は、始終狩りばかりして日を送られて居つたとの事である。現に東京上野の桜雲台へ建てられてある西郷卿の銅像は、猟犬を伴れて狩猟に出られる時の姿である。然し西郷卿なんかの狩猟はあの通り大度量のあつた人だから、空巣狙ひをする如き卑怯な狩り方で無く、孔夫子の如く弋して宿を射らずといふ行き方のものであつたに相違無い。又、よし網を打つて魚を獲るにしても、根こそぎ網を使つて在るだけの魚はみな残らず漁つてしまふといふ流義では無かつたらう。堂々と大人物の度量を以て狩りもし又網を打たれた事であらうと想ふ。
 狩猟は、主として豪傑肌の人によつて歓ばれるが、釣は少しく之と其趣を異にし、主として思慮思案に耽ける傾向のある人によつて悦ばるるものだ。同じ殺生がかつた事でも、茲に狩と釣との間に著しい相違がある。太公望は志を得るまで、釣をして居つたとの事だが、茫然として糸を垂れてたのではあるまい。釣をしながら静に思索に耽り、天下の経綸を稽へてたのだらう。九代目団十郎も好んで舟に乗り、釣に出たものであるとの事だが、舞台の上の工夫から、技芸上の考慮、さては新狂言の台詞の暗誦までも海上に小舟を浮べて釣糸を垂れてる間にしたものであるとの事だ。釣は如何にも静寂なものであるから、思想を練つたり、思索に耽つたりするには誠に恰好の遊びであるらしく思へる。
子曰。蓋有不知而作之者。我無是也。多聞択其善者而従之。多見而識之。知之次也。【述而第七】
(子曰く、蓋し知らずして之を作す者あり。我は是れ無き也。多く聞き其善き者を択びて之に従ふ。多く見て之を識る。知の次ぎ也。)
 道徳の三昧に入つてしまへば、人は敢て多く聞き多く見、強ひて取捨選択の労を親らするまでも無く、無意識の間に考へ、無意識の間に行ふところが其儘善で、其儘道に合致することになるから、徳行も一種の遊戯の如きものとなり、之を称して知の上々なる上智と言ひ得らるるだらうが、上智の次ぎの学知といふのは、成るべく多く聞き、成るべく多く見、そのうちより取捨選択し、善なる者を択んで之を認識し、之に従つて稽へ、之に依つて行ふ事である。然るに、下愚に至つては、是非善悪の分別無く、何んでも行き当りバツタリ心に浮んだままの行動をするものである。つまり、何事にも智慮を運らさず、無分別の行動に出づるのが是れ下愚だ。悲哉、世間には随分斯る下愚の人が多くある。
 茲に掲げた章句は孔夫子が蓋し自ら謙遜して発せられた言に相違無からうが、自分は生れながらにして無意識のまま善を行ひ道に合致し得るほど道徳の三昧に入つた上智の人間では無い。然ればとて善悪是非の弁別も無く何が何やら訳が解らず行き当りバツタリ思つたままを無茶苦茶に行ふといふほどの無分別を敢てする下愚の人間でも無い、力めて学ぶ事に苦心し、見聞を博くして知識を天下に求めその善なる者を択んで行ふ学知階級に属する人間であると仰せられたのである。
 多く聞き多く見、そのうちより最も善き者を択み、之に従つて行はねばならぬからとて、余り見聞ばかり博くしても、その人に見識が無ければ孰れを択んで然るべきものか、見当が付か無く成つて迷ふやうになるものだ。故に何んでも見聞ばかり多くすれば善いというわけのものでも無い。さればとて一切他人の意見には耳を仮さぬというやうに成つてしまつても困る。維新頃の人々のうちで、他人の意見に余り耳を仮さず、自分の意見を飽くまで貫徹しようとする傾向のあつた人は、副島種臣卿と江藤新平とだらうと思ふ。副島卿は見識もあり学問もあり、又立派な品格の人でもあつたが、決して他人の意見を参酌するといふ風の心情を持つた人では無かつた。何んでも自分の思つた通りに行ふ性質であつた。然し其れでも素が忠良の人物であつたから、邪道に踏み入る如き事を為さず、能く終りを完うするを得たのであるが、晩年に及んで存外振はなかつたのは、何んでも自分の意見を押し通さうとする性格のあつた為であらうかと思ふ。什麽も副島卿は、事物を詮衡する綿密の足らなかつた人のやうに思はれる。
 江藤新平も、他人の意見に耳を仮さず、何んでも独断専行、自分の思ふままを飽くまで押し通して行はうとする人であつたが、之れは又副島卿などと違ひ、「韓非子」を愛読して韓非子に私淑し、前条にも申して置いた如く、純然たる刑名学者に成つてしまひ、目的の為には手段を択まぬといふ如き流義の人であつたから、遂に其の私淑した韓非子に過まられて邪道に入り、佐賀の乱を起して賊名を蒙るやうに成つたのである。あの佐賀の乱なんかも、初めから起す積でも無かつたらうが、目的の為には手段を択まぬといふ主義であつた為、遂ひ何時の間にか知らず知らず踏み込んで引きずられ、あんな事になつてしまつたのだらう。
 副島種臣卿や江藤新平なんかと正反対で、力めて多く他人の意見を徴し、頗る多く見、頗る多く聞く事に骨を折つた人は松方正義侯である。松方侯は何事を行ふに当つても、自分の思つたままを直ぐ行ふ如きことを為さず、いろんな人々の意見を徴し之に耳を傾けたものである。為に先入主と為つて之に過まらるる如き弊は無かつたが、後から後から押しかけて来る人々の意見に動かされ、誰の意見を聞いても之を最も至極のもののやうに思ひ、最も晩れて最も後に進言した者の意見に従つて行ふかの如く見える弊があつた。従つて、一時松方侯は当時の新聞紙などから、「先入斎」の反対の「後入斎」を以て称ばれ、この異名が世間に流行したほどである。
 然し松方侯は無定見のぐらぐらした瓢簟鯰[瓢箪鯰]の人であつたといふのでは無い。帝国政府の財政当局者としては、幣制改革に関し終始変らざる一貫の意見を有し、入るを量つて出づるを制し、明治十四年より同三十年までの間に本邦の幣制を確立して、今日あるを得せしめたのである。大隈侯なんかは外債で財政の円滑なる運転を計らうとする意見であつたが、松方侯は之に反対で、輸出を奨励して正貨を外国より取り込み、之によつて不換紙幣を償却し、兌換制を維持せんとする方針を定め、明治十四年より之に着手し明治十九年に至つて兌換紙幣制度を完成したのである。此間、通貨の収縮により一時物価の下落を来して非難の声起り、随分困難せられたこともあるが、之が為初一の精神を改むるが如きこと無く遂に其の目的を達し、引続き金貨本位の樹立に就いて苦心し、之れにも金銀両本位が可いとか何んだとかと随分世間の反対が多かつたに拘らず、飽くまで金貨本位制を樹立する方針を以て進み、明治三十年に於て之を確立するに至つたのである。日本今日の幣制が整然として見るべきものあり、如何に国家多事の際と雖も幣制の牢乎として動かざるものあるは、一に松方侯苦心の致す処で、この点よりすれば松方侯は国家の偉大なる功労者であると謂はねばならぬ。
 それで又松方侯は、筆蹟も立派である上に文学上の趣味もあり、絵画其他の美術に関しても優れた鑑識眼がある。その上至つて子福長者で、子孫の多いのみかその子は何れもみな揃つて立派な人々である。国家の財政を運営するに上手であると共に家を治むるにも行届いた処のある人であると謂はねばならぬ。子息では松方幸次郎、松方五郎、松方巌其他みな共に当今の日本実業界に於ける一方の雄者であるが、殊に松方幸次郎氏の如きは実業家中の天才であると称しても過言で無いほどだ。然し公平に批評すれば、松方侯は卓見家といふ種類の人ではあるまい。綿密なる実務家と称すべきものだらう。
 「無理が通れば道理が引つ込む」といふ諺がある。無理が通つて道理の引つ込むやうな現象は到底世の中に有り得べからざるものの如くに想はれもするが、実際に於てはこれが却〻行はれて居るのだ。支那の語にも「人多くして天に勝つ」とあるほどで、如何な無理な事でも余り根気よく執着く行り続けられると、道理がある方の者は之を五月蠅く感ずるから、暫く引つ込んで時節の到来を待たうといふ気にもなる。そこで無理の方は時を得顔に横行濶歩し、我儘勝手の有りつ丈けを尽して、道理を苦しむるに至るのだ。然し結局、道理の勝利に帰するのが是れ天地の大法で、何れの日にか道理は無理を押し込めてしまひ得らるるやうになるのだが、一旦無理が幅を利かし出したとなれば斯く無理が押し込めらるるやうになるまでには相当の時日を要するものである。
 欧洲戦争も、観たところ一時は無理が通つて道理が引つ込み、人多くして天に勝つたかの如き形勢となり、人道を無みする独逸軍の勢力は駸々として日々に益〻昂り、聯合軍の勢力萎微甚だ振はず、殊に昨年(大正七年)四月の如き、吾々をして聯合軍の為に尠なからぬ杞憂を懐かしむるに至つたほど不利な形勢に陥り、この分では道理のある聯合軍側も当分無理な独逸に頭を押へ付けられてしまつて、逆境に苦まねばなるまいかと思われて居つた。
 然し独逸の勢力が一時は如何に旺盛の如くに見えても、到底道理によつて立つ聯合軍側に勝ち得らるべき筈無く、最後に独逸の敗北となるべきは私の信じて疑はなかつた処である。それにしても昨年春あたりの形勢では、斯くなるまでに猶ほ多くの歳月を要するらしく見えたので、或は余生の短い私なぞの生存してるうちには、聯合軍側の勝利によつて世界の平和を見られるまでには成るまいとも感じられたのだが、意外にも独逸が早く降参してしまつて、昨大正七年十一月十一日休戦条約の調印を見るに至り、歓喜と光栄とのうちに茲に目出度く大正八年の新春を迎ふるを得たのは、御互に欣快禁じ難しとする処である。古くから「不義の栄華は浮べる雲」と謂ひ做さるるほどで、よしんば那的勢ひで独逸が一時聯合軍に勝つてみたからとて、独逸の国家は決して永久に繁栄し得らるるものでは無いのである。それは一時無理が通つて道理が引つ込んだまでの事ゆゑ、永いうちには道理が頭を擡げ出して来て、屹度無理を押さへつけてしまひ、独逸の繁栄を害するやうになるのが天地の大法であるからだ。
 杜牧之の「阿房宮賦」に、「楚人の一炬、憐むべし焦土たり」の短い一句を以て、流石に宏壮を極めた秦の阿房宮も楚人項羽の放けた松火一本で焼き亡ぼされてしまつた消息を巧に叙しているが、不義の栄華は総てみなこの阿房宮の如く、瞬く間に亡びてしまふものである。若し独逸の無理が通つて一時道理が引つ込み、独逸の勝利になつたとすれば、カイゼルは必然之に勝ち誇り、愈よ持前の驕慢横暴を恣にするに相違無い。カイゼルが驕慢横暴となればその左右の臣も驕慢横暴となり、独逸国民も亦驕慢横暴を働くやうになるもので、「阿房宮賦」に「嗟夫れ一人の心は千万人の心なり、秦紛奢を愛すれば人も亦其家を念ふ」とあるのがそれだ。国の上下を挙げて斯く驕慢横暴に流れてしまへば、秦の末に漢の高祖の如き者が現れて、秦を討つて之を亡ぼすに至つたと同じやうに、独逸も必ずや今度の欧洲戦争前にも増した怨恨を世界の到る所より受け、到底立ち行かれ無くなり、誰かに亡ぼされてしまふのが必然の運命である。然し斯る二重の機会を待つにも及ばずして、今度の戦争で直に独逸の無理が敗けて降り、休戦条約の調印を見るに至つたのは如何にも歓ばしい事だ。
 独逸が意外にも斯くばかり早く降参してしまつたのは、固より聯合軍側の持久的努力に依るところ多きは申すまでも無い事だが、米国大統領ウヰルソンが蹶然として起ち、米国をして聯合軍側に加担させてしまつたのに負ふ処が頗る多いと謂つても可いのである。米国が参戦するまでになるのには、客船ルヂタニア号が無警告で独逸潜航艇に撃沈せられて以来、幾回となく独逸との間に文書の往復を重ねたもので其間にウヰルソンは、若し戦が聯合軍側の不利に帰し、独逸をして世界の舞台に今後益〻跋扈せしむるやうな事に成りでもすれば、正義と人道との為に由々しき大事を惹き起すに至るべきは勿論、人類全般の不幸之より大なる無きを看破し、茲に意を決して世界の人道と正義とを代表して独逸を膺懲すべく米国を参戦せしむるに至つたのである。独逸のカイゼルが亜米利加のウヰルソンに敗けて休戦を提議するに至つたのは、是れ即ちウヰルソンによつて代表せられた正義と人道とがカイゼルによつて代表せられた横暴と不仁とに勝つたのだ。
 昨大正七年十一月十一日愈よ休戦条約の調印せらるるや、東京の実業団は同月十六日朝野の名士有力者を丸の内の東京商業会議所に会して祝賀会を開き、内閣諸大臣も之に列席せられたが、席上藤山同会議所会頭は、戦後の経営に就ては一に実業の発展に依らざるべからざること故、これが為政府も大に力を尽し、官民相一致して進みたいと云ふ意を演説せられたのである。之に対し原内閣総理大臣は、総じて従来の戦争では武力の強い方が勝つのを原則としたが、今回の欧洲戦争ばかりは従来の原則を破り、独逸が未だ武力に於て聯合軍に勝る処あり、戦場では独逸が猶ほ優勝の位置にあつたにも拘らず却て独逸の敗北となつたのは、独逸は武力に於てこそ聯合軍に勝りはしたれ、富力に於ては遥に聯合軍側の諸国に及ばなかつたからで、つまり富力の戦争が聯合軍の勝利に帰せる結果、全局の戦争も亦聯合軍の勝利に帰せる次第ゆゑ、戦後の日本は大に富力の涵養に力めざるべからざる事情にある、従つて今後益〻実業家諸氏の奮励を望むといふやうな意味を演説せられたのである。
 席上私にも何か一つ演説せよとの事であつたから、敢て異様の意見を立つる為でも何んでも無く、原首相の演説せられた趣旨を単に補はうとの精神から、私は聯合軍側の富力が独逸の富力に勝つてたのが原因で結局聯合軍側が戦勝者の位置に立ち得るまでに成つたのは、如何にも原首相御演説の通りに相違無いが、聯合軍側の富力には道徳力が伴つてたから、それで其の富力が頗る有力なる勢力となり、遂に敵を降参させる事のできるまでに成つたもので、如何に聯合軍に物質上の富力のみが豊かであつても、之に道徳力が伴はなかつたとしたら、到底独逸に勝ち得なかつたのである。つまり聯合軍の勝つたのは其道徳の力で独逸の不道徳を破れるものゆゑ、日本も戦後は単に物質上の富力を涵養するのみに力めず、まづ第一に国民道徳の涵養に努力し、富力に伴ふに道徳力を以てし、経済と道徳との調和一致によつて茲に獅子奮迅の力を得、よつて以て世界の競争場裡に立つやうに致したい、道徳力の伴はぬ富力は所謂不義の栄華で、浮べる雲の如く、経済戦争の間に立つても到底勝利を得らるるまでの力の無いものであるとの意を演説したのだ。
 私は、戦後に於ては国家の富力を涵養するのが当然必要の大事であると思ふと共に、国民道徳の向上進歩を図るのが更に一層緊急の事で経済と道徳との一致無くしては、如何に産業が勃興しても国力の発展を期し得られぬものであると信ずるのだが、それにつけても益〻「論語」を普及し、之を実業家に読んで実行してもらひたいと思ふのである。「論語」は実に良く出来てる経書で、章々句々悉く之れ撃てば響くの概あり、その間に空理空想といふやうなものが殆んど無い。「孟子」なんかも実地の経済策を随分説いてるが、理想論に傾く弊があり之を読んでも直ぐ行ひ得られぬのだ。
 西洋の哲学者だとか倫理学者だとかいふ者の学説も亦、兎角理想論に走りたがり、「論語」の如く、読めば直ちに起つて行ひ得る実地に適切な意見では無いのである。総じて理想論には反動の傾向を帯びた矯弊的な短所のあるもので、唯心論の盛んであつた後には唯物論起り唯物論が盛んになれば今度は又、唯心論が起るといふやうな順序となり、一時欧羅巴にも国家主義の学説が盛んであつた後には、ヂョン・スチュアート・ミルの如き個人主義の説が起つたのである。宗教の如きものにすら猶且反動的傾向のあるもので、仏教なぞも印度に於ける血族階級の制度に反動して起つたものだと謂へば謂へぬでも無く、「四河海に帰すれば同一鹹味となり、四姓仏に帰すれば同一釈氏と名づく」と釈迦は説いたのである。同じ仏教でも鎌倉時代には「直指人心見性成仏」の臨済禅が盛んであつたかと思へば、日蓮が直ぐ其後から出て「禅天魔」と激しく禅宗を罵つてるでは無いか。親鸞聖人の他力本願説なんかも、禅宗が自力を本位としたのに反動して起つた宗教観であると視ても差支無いのである。同じ真言宗にも高野山派があるかと思へば之に対して豊山派がある。
 「孟子滕文公章句下」に「楊朱墨翟の言、天下に盈つ。天下の言楊に帰せざれば則ち墨に帰す。楊氏が我が為にするは是れ君無きなり。墨氏が兼ね愛するは是れ父無きなり。父無く君無きは是れ禽獣なり」とあるが、楊子や墨子の説なんかも、要するに矯弊論だ。荀子の性悪説などといふものも猶且矯弊論である。余りに仁義の説が盛んになつて来れば之に反動して楊子の自我説起り、楊子の自我説盛んになれば之に反動して墨子の兼愛説起り、性善説に対して性悪説が起るといふやうな調子になるのが是れ学説の弊で、学説は兎角楯の両面を見ずして其の一面のみを見、彼是と理窟を捻ねくつて見たがるものである。当今はベルグソンとかいふ仏蘭西の学者の説が大層日本にも行はれて居るさうで、人は何でも自分で善いと稽へた事をさへ行へばそれでよろしいといふ議論が勢力を得て居ると云ふ事だ。
 人には皆良知良能のあるもの故、他人の不利益妨害になるやうな事を稽へて之を善いと思ふ筈は無いのだが、さて実際になると他人の不利益妨害になるやうな事をも、猶ほ善いと思つてる人間が随分世間には多いのである。人は自分の善いと稽へた事を行ひさへすれば、それで宜しいといふ段になれば、不心得な人は父を無みし、君を無みする如き所行をも猶ほ善いと稽へ、無茶苦茶な真似をするやうになる。それでは人間も禽獣も同じになつてしまふでは無いか。要するにこのベルグソンの学説とかいふものも一の矯弊論たるに過ぎぬもので、余り当世の人々が世間をばかり気にして自信に乏しくなつた弊を矯めんとするにあるのだ。然るに「論語」には毫も斯る反動的な矯弊的傾向を帯びた趣無く、悉く実際に処する意見ばかりである。ここが「論語」の西洋に於ける学者の意見に勝つて偉いところである。私が「論語」を担ぎ廻るのも、時勢が余りに物質的になつて来たから、之に反動して矯弊の目的でやつてるのでは無い。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.327-333
底本の記事タイトル:二八〇 竜門雑誌 第三六八号 大正八年一月 : 実験論語処世談(第四十二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第368号(竜門社, 1919.01)
初出誌:『実業之世界』第15巻第22号,第16巻第1号(実業之世界社, 1918.12.01,1919.01)