デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一

1. 今日行はるる狩漁規則

こんにちおこなわるるしゅりょうきそく

(42)-1

子釣而不網。弋不射宿。【述而第七】
(子釣して網せず。弋して宿を射ず。)
 茲に掲げた章句も、猶且孔夫子が何事に於ても極端に走らず、常に中庸の心情を以て万事に処し居られたことを示したもので、孔夫子は網を打つて魚を漁るやうなことをせられなかつたからとて、絶対に魚を漁らなかつたといふのでは無く、一尾づつ釣竿を垂れて魚を釣り、之を祭りの用に供したり或は食養にせられたりしては居られたのだ。又、狩猟なぞに於ても同様で、絶対に猟をしなかつたといふのでは無い。矢を弦に懸けて射る「弋」はせられたが、栖に宿つてる鳥を撃ち取るやうな事はせられなかつたといふのである。かくの如く、一切殺生をせぬでも無く、又殺生をせられたからとて、無闇矢鱈に漁猟を行はず、其間にチヤンとした節度があつて、魚を漁るにも釣に止め、鳥を射るにも栖に宿まつて居らぬものに限られたといふところに、孔夫子の面目が躍如として顕はれてるやうに想はれる。
 孟子も「数罟汚池に入らず、斧斤時を以て山林に入る」と説いてるが、その趣意とする処は、猶且孔夫子の「釣して網せず、弋して宿を射ず」と仰せられたのと同じである。
 孟子の句にある「数罟」といふのは「根こそぎ網」のことで、この種の網を使つて魚の潜んでる水の濁つた池を掻き廻す事になれば、魚の種が絶えてしまふ恐れがある。それから山林の伐採を行ふにしても四時休むこと無く乱伐を行へば、如何なる山でも忽ち禿山となり、治水を乱すに至るは必然だ。依て、今日では漁猟にも一定の期間を設けて狩猟期を定めたり、何時から何時までは鮎を漁つてはならぬとか雀を獲つてはならぬとかとの規定を設け、森林の伐採なぞに就ても夫々の方式やら規則やらがあつて、乱伐を防ぎ、孰れにしても種を絶やさぬ事に骨折つてるが、これは期せずして孔夫子及び孟子の心懸けて居られたところに一致するものである。孔夫子が釣して網せず、弋して宿を射られ無かつたのは、果して魚類鳥獣の種を尊重し、これが繁殖を計らうとの御趣意から来たものか何うか稍〻疑問であるが、空巣狙ひをする如き卑怯の行動を避くる精神より、斯る方針に出られたものである事だけは頗る明かで、孔夫子にして若し今日行はるる根こそぎ網の如きものを見られたら、定めし之を排斥せられた事であらう。

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デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.327-333
底本の記事タイトル:二八〇 竜門雑誌 第三六八号 大正八年一月 : 実験論語処世談(第四十二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第368号(竜門社, 1919.01)
初出誌:『実業之世界』第15巻第22号,第16巻第1号(実業之世界社, 1918.12.01,1919.01)