デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一

4. 松方侯後入斎の称あり

まつかたこうこうにゅうさいのしょうあり

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 副島種臣卿や江藤新平なんかと正反対で、力めて多く他人の意見を徴し、頗る多く見、頗る多く聞く事に骨を折つた人は松方正義侯である。松方侯は何事を行ふに当つても、自分の思つたままを直ぐ行ふ如きことを為さず、いろんな人々の意見を徴し之に耳を傾けたものである。為に先入主と為つて之に過まらるる如き弊は無かつたが、後から後から押しかけて来る人々の意見に動かされ、誰の意見を聞いても之を最も至極のもののやうに思ひ、最も晩れて最も後に進言した者の意見に従つて行ふかの如く見える弊があつた。従つて、一時松方侯は当時の新聞紙などから、「先入斎」の反対の「後入斎」を以て称ばれ、この異名が世間に流行したほどである。
 然し松方侯は無定見のぐらぐらした瓢簟鯰[瓢箪鯰]の人であつたといふのでは無い。帝国政府の財政当局者としては、幣制改革に関し終始変らざる一貫の意見を有し、入るを量つて出づるを制し、明治十四年より同三十年までの間に本邦の幣制を確立して、今日あるを得せしめたのである。大隈侯なんかは外債で財政の円滑なる運転を計らうとする意見であつたが、松方侯は之に反対で、輸出を奨励して正貨を外国より取り込み、之によつて不換紙幣を償却し、兌換制を維持せんとする方針を定め、明治十四年より之に着手し明治十九年に至つて兌換紙幣制度を完成したのである。此間、通貨の収縮により一時物価の下落を来して非難の声起り、随分困難せられたこともあるが、之が為初一の精神を改むるが如きこと無く遂に其の目的を達し、引続き金貨本位の樹立に就いて苦心し、之れにも金銀両本位が可いとか何んだとかと随分世間の反対が多かつたに拘らず、飽くまで金貨本位制を樹立する方針を以て進み、明治三十年に於て之を確立するに至つたのである。日本今日の幣制が整然として見るべきものあり、如何に国家多事の際と雖も幣制の牢乎として動かざるものあるは、一に松方侯苦心の致す処で、この点よりすれば松方侯は国家の偉大なる功労者であると謂はねばならぬ。
 それで又松方侯は、筆蹟も立派である上に文学上の趣味もあり、絵画其他の美術に関しても優れた鑑識眼がある。その上至つて子福長者で、子孫の多いのみかその子は何れもみな揃つて立派な人々である。国家の財政を運営するに上手であると共に家を治むるにも行届いた処のある人であると謂はねばならぬ。子息では松方幸次郎、松方五郎、松方巌其他みな共に当今の日本実業界に於ける一方の雄者であるが、殊に松方幸次郎氏の如きは実業家中の天才であると称しても過言で無いほどだ。然し公平に批評すれば、松方侯は卓見家といふ種類の人ではあるまい。綿密なる実務家と称すべきものだらう。

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キーワード
松方正義, 後入斎,
デジタル版「実験論語処世談」(42) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.327-333
底本の記事タイトル:二八〇 竜門雑誌 第三六八号 大正八年一月 : 実験論語処世談(第四十二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第368号(竜門社, 1919.01)
初出誌:『実業之世界』第15巻第22号,第16巻第1号(実業之世界社, 1918.12.01,1919.01)