デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531

哀公問於有若曰。年饑。用不足。如之何。有若対曰。盍徹乎。曰。二。吾猶不足。如之何其徹也。対曰。百姓足。君孰与不足。百姓不足。君孰与足。【顔淵第十二】
(哀公有若に問うて曰く。年饑ゑて用足らず。之を如何せん。有若対へて曰く、盍ぞ徹せざる。曰く。二、吾れ猶ほ足らず、之を如何ぞ其れ徹せん。対へて曰く。百姓足らば、君孰れと与にか足らざらん、百姓足らずんば、君孰れと与にか足らん。)
 哀公は魯の諸侯であつた。有若は孔子の門弟であつて、孔門の十哲ではないけれども、一説には曾子と共に論語を編纂したと伝へられ、之れが為めに論語にも、特に曾子と有子とに子といふ敬称を用ひてあるのだとの説がある程で、兎に角有若は孔子の高弟であつた事だけは確かである。且つ有若の容貌は夫子に酷似して居つたので、孔夫子が亡くなられてから有子を以て孔子の代りにしようかといふ議が、一部の門弟間に唱へられてあつたといふ事が、論語の序の中に記されてあつたやうに記憶する。此の事は他に反対もあつたので其のまま立消えになつたやうであるが、同門中にも相当の声望があつた人物である事は疑ふ余地がない。有子は後に魯の哀公に仕官して重用されたが、此の章句は即ち哀公と有子との問答であつて、簡単に言ふと有子が哀公の質問に答へて、「民は国の本であるから、君王たるものは民を愛さなければならぬ」といふ事を説かれたものであつて、孔子の教訓を述べたものである。
 哀公は一日、孔子の門弟である処の有若に向つて「近年国内に饑饉が打ち続いて、収入も思ふやうに無い為めに国用が不足を告げて困つて居るが、どうしたら宜しからう」と相談された。蓋し哀公の意は財政が苦しいから増税しようといふ謎である。処が有若は人民を救ふ費用が足らぬ事と心得て、答へて言ふには「君には昔の徹法によつて十分の一の租税を取らるる事に為し給ふたら宜しいでせう」と申し上げた。此の徹法といふのは昔の税法であつて、君王は田畑の収穫の中の十分の九を人民に与へ、十分の一を租税として納めしめたのである。魯の宣公の時より之を改めて増税し、哀公の時代には十分の二を徴収して居つた。依つて有若の意見は租税を軽減して人民の負担を軽くするやうにしたら宜しからうといふのである。
 哀公は案に相違し、「今日は昔と違つて種々支出も多い為め十分の二の租税を徴収しても猶ほ足らぬのに、どうして昔の徹法の如く、十分の一に止むる事が出来よう」と重ねて増税の意を仄めかした。有若始めて哀公の真意を悟り、「君と民とは一体のものである。人民が衣食足りて富裕になれば、之れ即ち君の富めると同様である。どうして独り君王のみが窮乏すべき筈がない。之れに反して人民が悉く貧乏とすれば之れ即ち君の乏しいのである。民が困窮して君王のみ富裕なるべき道理がない。されば国民が不作に苦んで居る今日の場合に税を厚くなすべきでない。税を軽くして民を富ますこそ今日の急務である」と理路整然として憚る処なく其の意見を述べたのである。之れ誠に尤も至極と申すべきである。猶ほ章句の中に百姓といつて居るが、之れは所謂農民の事を言うたのではなく、天下の民は皆民族姓がある故、沢山の民を指して百姓と云つたのであつて、即ち百姓とは諸々の民といふ事なのである。
 周の時代の制度について、果して十分の二の徴税が適当であつたかどうか、将た周公の政事が正しかつたかどうか、今其の善悪を批判する事は難かしいが、兎も角、有子が人民に重きを置いて居つた事は、此の章句の中に窺ひ知る事が出来る。有子は今で言ふ民衆主義又は民本主義の人といふ可きであらう。主義としては勿論結構であるが、税の重い軽いに就ては、宜しく時勢の現状に基いて判断すべきもの故、必ずしも当時十分の二の租税を重しとして、十分の一に軽減せよと説いたのが正しいと判ずる事は出来ない。単に租税の点から論ずるならば、現在の日本の税制の如きは、苛斂誅求と言はなければならぬだらうが、世界の大勢や国内の情勢から論ずると、勿論整理改廃を要するけれども、一概に苛斂誅求だとばかりも断ぜられぬ。
 周公と比較するのは甚だ当を得ない次第であるが、周公が国費多端の為め増税の意があつたのに反し、仁徳天皇は有子の説く如く民の富を以て御自分の富であるとなし、凶年相次で民の困つて居るのを察知せられて数年間課税を免ぜられ、之が為め皇居の破損も修理あらせられず、民と辛苦を倶にせらるるの大御心より不自由を忍ばせられて非常に質素に渡らせられた。また河を穿ち、地を掘り、堤を築き、道を開きなどして民の為めに計り給うたので、産業大に興り民富み栄ゆるに至つた。仁徳天皇の如きは、有子の所謂「百姓足らば君孰れと与にか足らざらん、百姓足らずんば君孰れと与にか足らん」といふのを実地の上に行はれたのであつて、其の仁政が今日に至るも称へられ居るのは宜なるかなである。
子張問崇徳弁惑。子曰。主忠信。徙義。崇徳也。愛之欲其生。悪之欲其死。既欲其生。又欲其死。是惑也。誠不以富。亦祇以異。【顔淵第十二】
(子張徳を崇くし、惑ひを弁ぜん事を問ふ。子曰く、忠信を主とし義に徙るは徳を崇うするなり。之を愛しては其の生きんことを欲し之を悪みては其の死せん事を欲す。既に其の生を欲し、又其の死を欲す、是れ惑ひなり。誠に富を以てせず、亦祇《まさ》に異を以てす。)
 子張は孔門の十哲ではないが、却々議論家であつて、論語の中にも難かしい質問を発して孔子の教を請うてゐる。此の章は、子張が徳を高く積み上る仕方と、心の惑ひを見分くる仕方とを質問せるに対し、孔子の答へられたもので、「徳を高くするには、忠信を主として――即ち自分の誠を推して人に親切を尽し、信実にして虚言を吐かぬ事を主眼とし、且つ不義を避けて義に遷り、其の及す所が皆義に合して過失がなければ、自ら徳を高める事が出来るものである。又、愛憎は人情の常であるけれども、其の極、之れを愛する時は其の人の長生せん事を望み、之を悪む時は其の人の早死にせんことを欲するに至るものである。既に其の人の生きん事を望み、又其の死せんことを欲するは是れ其の人の善不善を以て愛したり憎んだりするのではなく、私情を以て動かされるので是れ惑ひである。人に定見がない時は、一時の愛憎によつて心の惑ふものであるから、私情を去つて如何なる場合でも毅然たる態度を以て事に臨めば、其の惑ひを見分くる事が出来るものであると説かれ、尚ほ詩経の小雅の部にある「誠に富を以てせず、亦祇に異るを以てす」の句を例証して、人間の称美する所は富にあらずして行ひに在る事を説明し、徳を修め身を慎しむ事の最も必要である事を補足されたのである。
 人として徳を修むる事の必要である事は、今更事新しく謂ふまでもない。如何に唯物主義の世の中であつても、徳のない者は世人から尊敬されない。譬へば政事の衝に当るにしても、為政者に徳がなかつたならば人民が心服せず、治績を挙げる事は出来ない。又会社の重役にしても、工場の主任者にしても、徳がなかつたならば、能く部下を統率して行く事は出来ぬものである。然しながら徳を積むといふ事は、一朝一夕で出来るものではない。常に忠信を主とし、毫も自分の良心を欺くやうな事なく、若し自分の考へや行ひに過失があつたならば、義しきに遷して過ちを補ひ、私情を蔽ふやうな事がないやうに勗めたならば、知らず識らずの中に徳が積まれて、何時とはなしに他人からも尊敬せらるるやうになるものである。
 又人間には迷ひが有り勝ちのものである。普通七情といつて、人には愛するとか、憎むとか、欲するとかいふ情があるものであるが、此の私情に蔽はれると物事を正しく観る事が出来ない。随つて正しい判断をする事が出来ない。其所に惑ひがあるのである。之れは畢竟、物事に臨んで私情に捉はれるからである。孔夫子は七情の発動が勉めずして理に適うて居られた。悲しむべき時に悲しみ、悦ぶ可き時に悦び[、]所謂、喜、怒、哀、楽、愛、憎、欲が最も自然的であつた。之れも亦平素の修業による処であるが、此の惑ひを去るには「子四つを絶つ、意なく、必なく、固なく、我なし」と子罕篇にもある如く、常に私情を遠ざけて、大公至正、事を義しきに適する様に心懸けたならば惑はざる人となり得よう。
斉景公問政於孔子。孔子対曰。君君。臣臣。父父。子子。公曰。善哉。信如君不君。臣不臣。父不父。子不子。雖有粟。吾得而食諸。【顔淵第十二】
(斉の景公、政を孔子に問ふ。孔子対へて曰く。君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たりと。公曰く。善い哉、信に如し君君たらず臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾れ得て諸《こ》れを食はんや。)
 孔子が斉の国に往かれた時、時の君主景公が政事の仕方を孔子に尋ねられた。夫子が之に答へて「君が君たるの道を尽し、臣が臣たるの道を尽し、父が父たるの道を尽し、子が子たるの道を尽すのが、政事の奥義で御座いまする」と言はれたのである。景公之れを聞かれて大に感服され「全く善い事である。誠に若し君たるの道を尽さず、臣は臣たるの道を尽さず、父は父たる道を尽さず、子は子たる道を尽さぬに於ては、例ひ米や粟が山の如く有つても、吾れはどうして心配なく之を食ふ事が出来ようぞ」と共鳴した。之れが此の章の大意である。
 孔子は曾て斉の国に赴いて景公に仕官せんとした事があつたが、妨げられて其事なくして止んだ。此の章はどういふ場合の問答であるか明かでないが、当時景公は沢山の妾を蓄へ、太子も立てず、大夫の陳氏が厚く国に施して民望を収めて居つたので、君臣父子の間、皆其の道を失ひ、政を失して居つた。孔子は此の時弊を察して、国政は先づ人倫を明かにするに在る事を説かれたのである。景公は孔夫子の言葉を聞いて大に感服はしたけれども、其の言葉を用ひて行ひを改め、君父たるの道を尽す事をせず、依然として放逸に流れて居つた為め、後に至つて果して国乱れ、斉の国を陳氏に奪はるるに至つた。若し景公にして孔子の言に聞いて、人倫を正し、国政に意を注いだならば、恐らく此のやうな禍を招くやうな事はなかつたらうと思はれる。
 論語は経書の一つである。而して経書と云ふのは四書(大学、中庸[、]論語、孟子)。五経(詩経、書経、易経、礼記、春秋)。九経(五経に孝経、論語、孟子、周礼を加へたもの)。十三経(九経に公羊伝、穀梁伝、周礼、爾雅を加へたもの)などを云ふのである。殊に九経は経学者の大いに尊重おかざる処のものである。
 この九経には系統的に規則立てて論じたものもあり、歴史的に事実を叙述したものもある。規則立ててある事柄を論じたものとしては礼記などがあり、歴史的に事実を叙述して、その間に褒貶黜陟を試みたものとしては春秋がある。大学などは、終始一貫した一篇の文章で、孔子の言つたことを文章にしたもので、之れが孔子の遺書と称される所以である。中庸は子思の哲学的心事を以て仁義徳行を色々な場合から観察した意見を羅列したものであり、孟子は一つの議論文である。
 然るに論語は是等のものと異り、規則立ててある事を論じたものでもなく、又哲学的に意見を立てたものでもない。唯行住坐臥、所謂日常生活の出来事に関して弟子とその事を論じ合うたことなのである。ある時には魯の大夫との問答があつたり、その君との問答があつたり又弟子との問答があつて、その論じた事柄たるや千差万別である。故に論語は四書の中ではあるけれども、大学、中庸、孟子などとは全然その趣きを異にして居り、又其の他の五経などとも非常に異つて居る処である。されば論語は孔子の日常の言行録とも云ふべきものであると見るのが適当かと思ふ。
 殊に論語の異る処は、ある所に於てある人を非常に賞めて居るかと思ふと、ある所になると之れと反対に貶して居ると云ふやうなのが珍らしくないことである。例へば憲問篇に「子曰。桓公九合諸侯不以兵車。管仲之力也。如其仁。如其仁」とあるが如く、管仲の仁者なることを称揚して居るかと思ふと、八佾篇には「子曰。管仲之器小哉」と貶したるのみならず、「管氏而知礼、孰不知礼」と云つて居る場合もある。故に孔子はその人を評するにも決して一定して居る訳でない。ある場合にはその点を摑まへて此処はエライと称めて居るが、他の場合には彼処はいけないと云つて非難して居ることが多い。
 故に論語を哲学的観察から言へば、哲学的ではないと言はれるが、機に臨み変に応じての批評のあるのは論語の面白い処でもあり、又論語としての価値ある所以でもある。然らば之れを吾人の日常の行動、即ち実践の上にはどうかと云ふに、私の考へる処によると何人でも論語の教へる処を服膺して行けば、その行為に於ては決して大過はないものと思ふ。若し論語にして宗教にあつたならば、バイブルとして尊重されたかも知れない。私は宗教が嫌ひであるから宗教の必要をも感じないのみでなく、この論語があるので尚更宗教の必要はない。殊に私の宗教を嫌ふ所以のものは、その事柄の奇蹟的であることである。中に阿弥陀に願つて救つて貰ふと云ふやうなことを云ふが、何も阿弥陀に願はなくとも人として善い事をすればよいではないか。人の本分を尽せばよいではないか。その人の本能を十分に発揮して自己の利益ばかりでなく、国家、社会の為めに尽せばよい。人の本分を尽して居れば、何も宗教によつて助けて貰ふことも救うて貰ふ必要もない。論語の学而篇に「為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎」とあるは、個人として将又社会人としての道を説いて居る。而も宗教の如く奇蹟的でも何でもないことなどから見ても、論語は如何に実際的であるかを推知することが出来る。
子曰。片言可以折獄者。其由也与。【顔淵第十二】
(子曰く。片言以て獄を折《をさ》むべき者はそれ由か。)
 この章は子路は正直であるから、物を判断するに公正であつた。為めに其の言ふ所は人々が皆信じたので、孔子は之れを称し、原被の両者は互に己の利を主張して、容易に決し難い訴訟でも僅か一言半句を以て判決し、而も原被の両者を信服せしめ得るものは、子路のみであらうかと云つて子路を大いに称揚したのである。けれども孔子は決して子路の全部を称めて居ない。公冶長篇に「子曰。道不行。乗桴浮於海。従我者其由与。子路聞之喜。子曰。由也。好勇過我。無所取材」と云つて居るのは、決して子路の勇を称めたのではなく、寧ろ早まり過ぎることを戒めたのである。即ち孔子は称めるやうにしてからかつて居つたのである。処が子路は之れを実の事と思つて喜んだから、孔子は桴を作る大木は今は何処にも得ることが出来ぬ。従つて実行も不可能であると言はれた。又由也喭と称し、子路の粗俗にして文采のないことを言はれたのも皆その時に応じての言である。併しながら孔子は又事の善悪を片言にして見分けるのは、子路の如き無欲敏活なる人でなければ、その速断は出来ないと言はれたのである。
子路無宿諾。【顔淵第十二】
(子は諾を宿することなし。)
 この章は孔子の語ではないけれども、同門の人の記してあつたものを編者が前の孔子の語に因つて、此処に類記したと云ふことである。これは子路の果断の人であつたことを現はしたもので、一旦承諾したことは直ちに実行しないといふことがない。然るに今日の政府の役人などはどうであらうか。果して諾を宿することのないやうなことをやつて居るであらうか。又、総理大臣などに対しても之れを言はれないこともないではないと思ふ。
子曰。聴訟吾猶人也。必也使無訟乎。【顔淵第十二】
(子曰く。訟を聴く吾猶ほ人の如きなり、必ずや訟なからしめん。)
 右は大学三章にある「子曰。聴訟、吾猶人也。必也使無訟乎。無情者不得尽其辞。大畏民志。此謂知本」とあるのと其の意味は同様である。孔子は訟を聴いて其の是非曲直を裁判することは、吾も人も同様で別に異る所はない。若し我と人との異る所を求めれば、吾は人心を正しくし、礼譲を教へて、その源を清くし、民をして訴訟して是非曲直を争ふことのないやうにすることである。人心を正しくすることは本であつて、法律などによることは末である。恐怖して悦服のないものは効果のないものである。為政篇に「子曰。道之以政。斉之以刑。民免而無恥。道之以徳。斉之以礼。有耻且格」とあると同様に解してよい。家族は小さいものであるけれども、大抵の家族が揖睦して茲に至つて居るのは、人情によつて結ばれて居るからである。故に之れを統一して行くに政刑を以てするよりも、徳礼によつて人心を正しくせしむる所まで進まなければならぬ。
子張問政。子曰。居之無倦。行之以忠。【顔淵第十二】
(子張政を問ふ。子曰く。之れに居つて倦むなく。之れを行ふに忠を以てす。)
 子張は十哲の中にはないが、孔子の三千人の中六芸(書、射、礼、楽、算、御)に通ずるもの七十人の中の一人である。議論の多い人で論語の中にも特に子張篇が這入つて居る位の人である。十哲の中にも篇をなして居るものは至つて少いのに、子張の特に這入つて居るのは余程優れて居る処があつたに相違ない。
 子張が政を孔子に問うたのに答へて、平居無事の日に於ても政事を心掛けて倦むことのないのは勤と云ふものである。併しこの政を行ふには、衷心から民を愛し、民の為めに謀つて少しも私心があつてはならぬ。この民を愛し民の為めに謀ることは誠と云ふものである。故に政治を行ふには忠と誠でなければならん。然るに子張は智能は優れて居つたが為め、自ら高くして淳朴忠実の風が欠けて居つた。故に誠心を以て民を愛しなければ必ず倦んで忠を尽さぬであらうと思ひ、特に之れを告げて戒めたのである。
 孔子は常に引込思案のものに対しては、之れに勇気をつけることを奨めて居る。又勇気のあるものに対しては之れを抑へるやうにして居る。子路の勇を抑へたのはその例である。所謂長所のある者はその長所をとり、短所のあるものはその短所を矯正させる方法をとつたのである。孔子の包容力の大なる所以は之れを以て知ることが出来る。
子曰。博学於文。約之以礼。亦可以弗畔矣夫。【顔淵第十二】
(子曰く。博く文を学び、之れを約するに礼を以てす。亦以て畔《そむ》かざるべきか。)
 この章は既に雍也篇に出て居る。唯前者の君子の二字が違つて居るのみの異である。之れを読んで見ても、如何に孔子はおとなしい人であるかを察することが出来る。孟子などは中々過激なことを言つて、何でもかうであると云ふ風に断定をして居る。けれども孔子は「亦以て畔かざるべきか」と云つて断定をしないと云ふことは、如何に孔子の性格の温厚篤実なるかを窺ふことが出来る。
 然るに多く今日の演説なり講演なりを聞いて見るに、余り確固たる信念を有つて居らぬのに、かうであると云ふ風に断定を下して居るのが多い。今日流行のマルクスとかデモクラシーなどもそれである。余り能くも知らんのに大いに知つた風をして論じて居るものも多いやうであるが、これなどは宜しく孔子のこの語を聞いて、自ら省みる処があつて然るべきである。
君子成人之美。不成人之悪。小人反是。【顔淵第十二】
(君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是れに反す。)
 本章はその当時の事実を捕へ、之れを概括的に述べたもので、君子は善をなし、小人は善をなすことを好まぬと言はれたのである。君子は私なく善事をなすことを好むので、人の善事でも自らなせしものの如く喜ぶ。又人に善事を勧めたり成就せしむるやうに誘導もする。然るに小人はそれに反して人に悪事があつても、それを諫止したり阻抑したりすることがない。寧ろ人の悪事をなすことを忌んで、大悪をなさしめることもある。
 人には親疎の別がある。即ち親しい者としては親があり、兄弟がある。又それ程親しくない者もあるから、人には色々の種類があつて、一様でないと言ふことが出来る。故に、善を勧めたり、悪を諫めたりするにも親しい者から始める。若し自分の親しい者で悪に陥らうとする場合にはそれを諫止して善に移らしめなければならぬ。昔時平清盛が権勢を得て、人をも人と思はぬと云ふ我儘の振舞が多かつた。為めに之れに対する反感も亦少くなかつた。殊に後白河法皇の如き、その横暴を憎んで之れが権勢を殺がんことを謀つたことは決して一再ではない。ある時法皇の策洩れて清盛の知る処となるや、清盛大いに怒り自ら進んで法皇に迫らうとしたことがあつた。重盛之れを聞くや直ちにその邸に走り、清盛を諫め平氏の今日あるを得たのは君恩に由るのである、然るにその君恩のあるを忘れて君を討たんとするのは不忠の大なるものである。若し何処までも君を討たんとするならば、先づこの重盛の首を刎ねよと云つた。更に弟宗盛に向つて、常に父の側にありながらその悪をなすを何故諫めなかつたと叱つた。重盛の如きは確かに父清盛を諫止して悪をなさしめなかつたものと云ふべきである。
 君子と小人との別は善を好み、悪を阻抑すると云ふことに由つても分るが、小人は人を誹り、即ち誹謗する。誰、彼はかうであると悪し様に言つてその人の徳を損することをする。之れは小人の常であつて君子の敢てなす所のものではない。勿論君子と小人との区別は之れのみによつて知るべきではないが、孔子は君子は美をなすことを好み、小人は之れに反すると云ふ短い言葉によつて区別し、之れを戒めたのである。
季康子問政於孔子。孔子対曰。政者正也。子帥以正。孰敢不正。【顔淵第十二】
(季康子政を孔子に問ふ。孔子対へて曰く。政は正なり。子帥るに正を以てせば、孰れか敢て正ならざん。)
 本章は身を以て帥ることを教へたもので、所謂正義人道を行へば、人も亦倣ふと云ふのである。季康子は魯の大夫で三家の一人である。(三家とは季康子、叔孫、孟孫のことで、魯の国政上に大いに権勢を揮うたものである。)季康子も可なり我儘なことも多かつたが、幾分政治の事に意を注がうとする志があつたと見え、孔子に政治のことを問うたのである。然るに孔子はこれまで季康子の遣り方も知つて居られたので、政は正しきことである。国中の民が正しきことを行つて、曲つた行ひのないやうにすることである。而して之れを正しくするにはどうするかと云ふに、先づ上位にある者から、身を以て率ゐると云ふことにしなければならぬ。自己が正しきことを行へば下は之れに倣ふものである。例へば私が正しきことを行へば私の家も正しくなる。又政府にしても政党にしてもさうである。自己が勝手気儘なことをして居ながら、他に善事を行へと云つてもそれは出来るものでない。先方の悪いことを責めて、善事を求めるのは小人のやることである。これ等は前の章句と同じ意味のものであると云ふことが出来る。
 季康子は政治に就いて問ふ丈けのことは出来たけれども、政治を行ふことでは完全ではなかつた。そこで孔子は季康子に対つて、人民を正しきに向はしめようとすれば、先づ自己を正しくせよと言はれ、人を余り苛責しないで、静かに説いて戒しめられたのである。併し孔子は何時も穏かにとは極つては居ない。次の章句の如きは可なり手厳しく言つて居る。
季康子患盗。問於孔子。孔子対曰。苟子之不欲。雖賞之不窃。【顔淵第十二】
(季康子盗を患へて、孔子に問ふ。孔子対へて曰く、苟も子の欲せざれば、それを賞とすと雖も窃まず。)
 此の章は下の悪を制せんとするならば、先づ己れを正しくせよと云ふことを説いたもので、前章と同じ意味である。而して「子之不欲」の句に対して集註には「不貪欲」とあり、無欲の義に解して居るけれども、中井履軒は盗を欲しない義に取つて居り、三島先生もその説を正しとして居られる。
 季康子は魯に盗賊が多くて、民その堵に安ずることが出来ないので此の盗賊を弭めさしむるにはどうするかと云ふ問ひに、孔子は下の不正にして盗をなすのは、上位にあるものが不正であるからである。若し上にして心を正しく行ひを潔くし、盗をなすが如き行を欲しないならば、下は之れに感化されて、不正を行はないやうになる。例へ賞して盗をなさしめようとしても盗をなすものではない。と云つて、常に季康の非行の盗と異ることなきを直言して戒めたのである。
 由来儒教は凡ての行為を消極的に観て行く。例へば下位の悪に対しても、支配権を有つて居るものを責める。又世の中の事も消極的に観て行かうとする。而もかう云ふ風に観察して行くことが正しいことのやうに思はれる。上位にあるものは、名誉と尊敬を受ける権利があつたならば、この権利に対する義務がなければならぬ。そして世の中の事も権利に対して義務の伴ふことによつて維持されて行く訳である。長者に名誉と尊敬を受けて居ることは、デモクラシーでないと云ふかも知れないが、長者と先輩とあつて同様なる地位でないと云ふことが社会を真正ならしめるものと思ふ。即ち長者や先輩には名誉と尊敬を受けるからそれ丈けその行為に責任もあり、義務もあることになる。
季康子問政於孔子曰。如殺無道。以就有道。如何。孔子対曰。子為政。焉用殺。子欲善。而民善矣。君子之徳風。小人之徳草。草上之風。必偃。【顔淵第十二】
(季康子政を孔子に問うて曰く。如し無道を殺して、以て有道を就さば如何。孔子対へて曰く、子政を為す、焉ぞ殺を用ゐん。子善を欲すれば民善なり。君子の徳は風、小人の徳は草。草之れに風を上《くは》ふれば、必ず偃す。)
 本章は政の働きを示し、政は勧善を貴び、悪を懲らすのは末であることを説いたものである。
 季康子は更に政治を孔子に問うて、善人は常に無道の人の為めに迫害されて居るから、無道の徒を殺して有道に就かしめたならば善いではないかと言つた。処が孔子は、政を為すに何も殺を用ふる必要はない。若し子にして善を好み善を行つたならば、民は之れに倣うて善に就き悪を去らしめることが出来るであらう。丁度、君子の徳は風、小人の徳は草のやうで、風吹かば草は必ず偃して之れに従ふと云つた。それなどは君子と小人との比喩として誠に適切なものである。
 儒教の本体としては、位あるもの、勢力あるものは名誉と尊敬を受けて居る。従つて責任もあり、義務もあるので、之れを責むるに厳しくなければならぬ。所謂上に厳しく下に寛にする。之が又儒教の骨子である。世の中も亦この通りである。若し二人の間に争が起つた場合には、先輩即ち上位のものが悪いと見なければならぬ。如何に人は平等でなければならぬと云つても、上位のものは社会から受くる名誉、境遇が違ふから、上位のものが責任や義務を負はないで下級に及ぼすべきものでない。凡てのものが平等であると云つた処で、水が平等であつたら流れ行く処がなくなる。又上が清い水であれば下も清い水であるべきである。末者に不徳があつても、長者に徳があれば末者は直ちに直すことが出来る。会社にしても役所にしても将又個人の家にしても同様である。長者、末者のあることは現代に於て行はれても決して悪いことはないと思ふ。
子張問。士何如斯可謂之達矣。子曰。何哉爾所謂達者。子張対曰。在邦必聞。在家必聞。子曰。是聞也。非達也。夫達也者。質直而好義。察言而観色。慮以下人。在邦必達。在家必達。夫聞也者。色取仁而行違。居之不疑。在邦必聞。在家必聞。【顔淵第十二】
(子張問ふ。士如何なる斯れ之れを達と謂ふべきか。子曰く。何ぞや爾が所謂達とは、子張対へて曰く。邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。子曰く。是れ聞なり。達に非ず。夫れ達は質直にして義を好み、言を察して色を観る。慮て以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色、仁を取りて行ひは違ふ。之れに居て疑はず、邦に在つても必ず聞え、家に在つても必ず聞ゆ。)
 本章は聞達の意義を明かにしたもので、而も聞達の差別を事実に就いて面白く説かれたのである。子張が孔子に国士にして学に志すものは、どうすれば之れを達と謂ふものであらうかと問はれた。孔子は子張が外を努めて内を粗略にする傾向あるを知つて居られたので、孔子は直ちに之れに答へず、汝の云ふ所の達とは何を指すのであるかと反問した。そこで子張は之れに答へて、仕へて邦に在つても名誉が聞え退いて家に在つても名誉が聞えて居るのを達と云ふのだと答へた。然るに孔子は之れに教へて曰ふには、汝の言ふのは聞であつて達ではない。と一語を以て聞と達との区別を明かにした。そして更に聞と達との異る所を詳説して、達とは質直にして華飾なく、そして義を好んで為す事が宜しきに適ひ、又人に接するにも、人の言葉を察し、人の顔色を見て、その事を行ふか否かを察する。そして更にその事を思慮して、人に遜つて毫も驕傲の態度がないと、邦に仕へても、家に在つても、その行ふ事に支障ないやうになる。それを本当の達と云ふのである。之れに反して聞とは、自分の外面ばかり粧飾して仁者らしく見せかけても実際はそれ程でもなく、又その非を疑ふことなく、専ら名を求めることに努める。さうすると邦に在つても、家に在つてもその名誉が聞える。之れを聞といふのだと教へ戒められたのである。
 現代には聞の人は相当に多いけれども、達の人は至つて少いばかりでなく、聞と達との区別が往々にして間違はれて居る。成る程、聞の人にしても達の人にしても名誉ある人であつて、聞の人であつても決して悪い人と言ふことは出来ない。即ち諸葛孔明の出師表の中に「苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯」とあるが如く、この聞と達とは殆んど同じやうな意味に用ゐられて居る。併し詳しく言へば聞はその形に於て至誠であつても内実はさうでないと云ふ丈けで、達とは形の上でも内実でも至誠であることである。
 今、聞と達に就いて古人に考へても、友人、故旧に就いても、之れを評論しようとすれば、その数は可なり多い。併しこの人は聞の人である、達の人であるとはつきり云ふことは仲々六ケ敷いものである。それに現在の人であると憚らなければならぬ処もあるが、之れを故人になつた友人に就いて言ふと、五代友厚は聞の人、玉乃世履は達の人と云ふことが出来る。五代は薩摩の人で維新の際にも勲業があつたので、政府が外国官を設くるに及んで其の判事となり、大隈、伊藤、井上等と努力し大いに経営する所があつた。後会計官となり大隈を助けて居つたが、この時に当り、諸強藩の中に贋金を行使するものがあつて制度が行はれなかつた。五代之れを憂へ、その罪を糺弾することに決するや、断々乎として行ひ、而もその処断は公平であつたが為めにその弊害を除去することが出来た。けれども之れが為めに士人の怨を受けて遂に官を辞し、実業界の人となつた。閥もあり、大隈などに愛された者であるが、かうして晩年はツイ揮はずに仕舞つたけれど聞の人と云ふべきである。
 玉乃は岩国の人で、岩国の藩政に参与したことがある。明治七年大審院長代理となり、同十年大山綱良犯罪一件臨時裁判所を開き、尋いで高知県士族藤村静、村松政克等の審問掛りを命ぜらるるや、裁決流るるが如く罪囚為めに善く服した。明年大審院長を命ぜられ、同十二年司法大輔となり、元老院議官、民法訴訟法審査委員となつて、十六年福島高田国事犯事件に就き高等法院裁判長を命ぜられ、同十九年大審院長となり、同八月七日特旨を以て従三位に叙せられたが、同九日公用の書類を整理して自殺した。玉乃は法律の方面に進み、私は経済の方面に行つたので仕事の上からは別に関係はないけれども、死する時まで交りを篤うした人である。勿論この二人はそれ程傑出した人物であると云ふことは出来ないけれども、官途にしても将又社会にも相当名をなした人であつた。そしてこの二人は聞の人、達の人であつたことも事実である。
樊遅従遊於舞雩之下。曰。敢問崇徳脩慝弁惑。子曰。善哉問。先事後得。非崇徳与。攻其悪無攻人之悪。非脩慝与。一朝之忿。忘其身以及其親。非惑与。【顔淵第十二】
(樊遅従ひて舞雩の下に遊ぶ。敢て徳を崇うし慝を脩め惑を弁せんことを問ふ。子曰く。善い哉問や。事を先きにして得を後にす。徳を崇うするに非ずや。其の悪を攻めて人の悪を攻むることなきは、慝を脩むるに非ずや。一朝の忿に其の身を忘れ、以て其の親に及ぼす、惑へるに非ずや。)
 本章は、徳を崇くして慝を脩め、惑を弁ずる工夫を説いたものである。舞雩に就いては古来学者の間に色々の説があつて一定しては居らぬ。私は之れを詮索することは得意でもないから、之れは一に学者の研究に任かせることにする。樊遅が孔子に従つて舞雩の下に行つた時に、孔子に徳を崇くするにはどうすればよいか。心の中の悪念を治めて之を除き去るにはどうすればよいものか、惑を弁ずるにはどうすればよいかと云ふことを問うた。
 樊遅は余り感心した人ではないが、学問に熱心な為めか能く問を発して居る。或る時は知を問うたり、仁を問うたりして居る。孔子は之に対して丁寧に教へられたが、或る時に稼を学ばんことを請ふたのに対しての孔子の答へに不満であつたと見え、其席を退いた時がある。この時に孔子は、「小人哉樊須也」と貶して居られた。茲ではその問ひの学問を為すに切実なるを称め、そして之れに教へて曰ふには、己の為すべきことをなし、其の報を思はないと徳は段々に積んで行くから之れが徳を高くする所以ではないと、前章の子張の問ひに対する答へのやうに反問しては教へて居る。常に自ら我が悪を攻めて之れを除き人の悪を攻めないならば、心の中にある悪念は匿るる所はないやうになる。之れが即ち慝を修むる工夫ではないかと教へられた。一時の小忿を耐へ忍ぶことが出来ないで、その身を忘れて人と争ふことがあれば、その禍が親兄弟にも及ぼして大害をなすに至るものである。之れは最初に小忿を忍ぶことが出来なかつた結果であるが、要するに事の大小を弁ぜない所の惑であるからである。既に惑であることを知つたならば、之れを弁別することは決して至難なものではない。故に事の大小軽重を知ると云ふことは惑を弁ずる工夫であると教へられた。之れは樊遅の人となりが野卑で利を思ふことが多いので、この三つの事柄によつて之れを戒めたのである。
 儒教孔子の教へは何時でも、形より内実を先きに改めて行くことが根本思想になつて居る。前述の季康子の孔子に政を問うたのに対し、正を以て此を帥ゐると民は自ら正しくなるかと対へ、又民をして有道に就かしめるには無道を殺すよりも、子が善を欲する時は民は自ら善となるではないかと対へたのは、皆内から改善を要求して居る。権道や覇道によるよりも、常道によつて導くと云ふやうでなければならぬとして居る。是れが孔子の本旨とする所である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)