デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

16. 聞と達との異る所

ぶんとたつとのことなるところ

(63)-16

子張問。士何如斯可謂之達矣。子曰。何哉爾所謂達者。子張対曰。在邦必聞。在家必聞。子曰。是聞也。非達也。夫達也者。質直而好義。察言而観色。慮以下人。在邦必達。在家必達。夫聞也者。色取仁而行違。居之不疑。在邦必聞。在家必聞。【顔淵第十二】
(子張問ふ。士如何なる斯れ之れを達と謂ふべきか。子曰く。何ぞや爾が所謂達とは、子張対へて曰く。邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。子曰く。是れ聞なり。達に非ず。夫れ達は質直にして義を好み、言を察して色を観る。慮て以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色、仁を取りて行ひは違ふ。之れに居て疑はず、邦に在つても必ず聞え、家に在つても必ず聞ゆ。)
 本章は聞達の意義を明かにしたもので、而も聞達の差別を事実に就いて面白く説かれたのである。子張が孔子に国士にして学に志すものは、どうすれば之れを達と謂ふものであらうかと問はれた。孔子は子張が外を努めて内を粗略にする傾向あるを知つて居られたので、孔子は直ちに之れに答へず、汝の云ふ所の達とは何を指すのであるかと反問した。そこで子張は之れに答へて、仕へて邦に在つても名誉が聞え退いて家に在つても名誉が聞えて居るのを達と云ふのだと答へた。然るに孔子は之れに教へて曰ふには、汝の言ふのは聞であつて達ではない。と一語を以て聞と達との区別を明かにした。そして更に聞と達との異る所を詳説して、達とは質直にして華飾なく、そして義を好んで為す事が宜しきに適ひ、又人に接するにも、人の言葉を察し、人の顔色を見て、その事を行ふか否かを察する。そして更にその事を思慮して、人に遜つて毫も驕傲の態度がないと、邦に仕へても、家に在つても、その行ふ事に支障ないやうになる。それを本当の達と云ふのである。之れに反して聞とは、自分の外面ばかり粧飾して仁者らしく見せかけても実際はそれ程でもなく、又その非を疑ふことなく、専ら名を求めることに努める。さうすると邦に在つても、家に在つてもその名誉が聞える。之れを聞といふのだと教へ戒められたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)