17. 誤り易き聞と達
あやまりやすきぶんとたつ
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今、聞と達に就いて古人に考へても、友人、故旧に就いても、之れを評論しようとすれば、その数は可なり多い。併しこの人は聞の人である、達の人であるとはつきり云ふことは仲々六ケ敷いものである。それに現在の人であると憚らなければならぬ処もあるが、之れを故人になつた友人に就いて言ふと、五代友厚は聞の人、玉乃世履は達の人と云ふことが出来る。五代は薩摩の人で維新の際にも勲業があつたので、政府が外国官を設くるに及んで其の判事となり、大隈、伊藤、井上等と努力し大いに経営する所があつた。後会計官となり大隈を助けて居つたが、この時に当り、諸強藩の中に贋金を行使するものがあつて制度が行はれなかつた。五代之れを憂へ、その罪を糺弾することに決するや、断々乎として行ひ、而もその処断は公平であつたが為めにその弊害を除去することが出来た。けれども之れが為めに士人の怨を受けて遂に官を辞し、実業界の人となつた。閥もあり、大隈などに愛された者であるが、かうして晩年はツイ揮はずに仕舞つたけれど聞の人と云ふべきである。
玉乃は岩国の人で、岩国の藩政に参与したことがある。明治七年大審院長代理となり、同十年大山綱良犯罪一件臨時裁判所を開き、尋いで高知県士族藤村静、村松政克等の審問掛りを命ぜらるるや、裁決流るるが如く罪囚為めに善く服した。明年大審院長を命ぜられ、同十二年司法大輔となり、元老院議官、民法訴訟法審査委員となつて、十六年福島高田国事犯事件に就き高等法院裁判長を命ぜられ、同十九年大審院長となり、同八月七日特旨を以て従三位に叙せられたが、同九日公用の書類を整理して自殺した。玉乃は法律の方面に進み、私は経済の方面に行つたので仕事の上からは別に関係はないけれども、死する時まで交りを篤うした人である。勿論この二人はそれ程傑出した人物であると云ふことは出来ないけれども、官途にしても将又社会にも相当名をなした人であつた。そしてこの二人は聞の人、達の人であつたことも事実である。
- デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)