デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

14. 長者は責任も重く義務もある

ちょうじゃはせきにんもおもくぎむもある

(63)-14

季康子患盗。問於孔子。孔子対曰。苟子之不欲。雖賞之不窃。【顔淵第十二】
(季康子盗を患へて、孔子に問ふ。孔子対へて曰く、苟も子の欲せざれば、それを賞とすと雖も窃まず。)
 此の章は下の悪を制せんとするならば、先づ己れを正しくせよと云ふことを説いたもので、前章と同じ意味である。而して「子之不欲」の句に対して集註には「不貪欲」とあり、無欲の義に解して居るけれども、中井履軒は盗を欲しない義に取つて居り、三島先生もその説を正しとして居られる。
 季康子は魯に盗賊が多くて、民その堵に安ずることが出来ないので此の盗賊を弭めさしむるにはどうするかと云ふ問ひに、孔子は下の不正にして盗をなすのは、上位にあるものが不正であるからである。若し上にして心を正しく行ひを潔くし、盗をなすが如き行を欲しないならば、下は之れに感化されて、不正を行はないやうになる。例へ賞して盗をなさしめようとしても盗をなすものではない。と云つて、常に季康の非行の盗と異ることなきを直言して戒めたのである。
 由来儒教は凡ての行為を消極的に観て行く。例へば下位の悪に対しても、支配権を有つて居るものを責める。又世の中の事も消極的に観て行かうとする。而もかう云ふ風に観察して行くことが正しいことのやうに思はれる。上位にあるものは、名誉と尊敬を受ける権利があつたならば、この権利に対する義務がなければならぬ。そして世の中の事も権利に対して義務の伴ふことによつて維持されて行く訳である。長者に名誉と尊敬を受けて居ることは、デモクラシーでないと云ふかも知れないが、長者と先輩とあつて同様なる地位でないと云ふことが社会を真正ならしめるものと思ふ。即ち長者や先輩には名誉と尊敬を受けるからそれ丈けその行為に責任もあり、義務もあることになる。

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デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)