デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

18. 樊遅の人となりと孔子の答

はんちのひととなりとこうしのこたえ

(63)-18

樊遅従遊於舞雩之下。曰。敢問崇徳脩慝弁惑。子曰。善哉問。先事後得。非崇徳与。攻其悪無攻人之悪。非脩慝与。一朝之忿。忘其身以及其親。非惑与。【顔淵第十二】
(樊遅従ひて舞雩の下に遊ぶ。敢て徳を崇うし慝を脩め惑を弁せんことを問ふ。子曰く。善い哉問や。事を先きにして得を後にす。徳を崇うするに非ずや。其の悪を攻めて人の悪を攻むることなきは、慝を脩むるに非ずや。一朝の忿に其の身を忘れ、以て其の親に及ぼす、惑へるに非ずや。)
 本章は、徳を崇くして慝を脩め、惑を弁ずる工夫を説いたものである。舞雩に就いては古来学者の間に色々の説があつて一定しては居らぬ。私は之れを詮索することは得意でもないから、之れは一に学者の研究に任かせることにする。樊遅が孔子に従つて舞雩の下に行つた時に、孔子に徳を崇くするにはどうすればよいか。心の中の悪念を治めて之を除き去るにはどうすればよいものか、惑を弁ずるにはどうすればよいかと云ふことを問うた。
 樊遅は余り感心した人ではないが、学問に熱心な為めか能く問を発して居る。或る時は知を問うたり、仁を問うたりして居る。孔子は之に対して丁寧に教へられたが、或る時に稼を学ばんことを請ふたのに対しての孔子の答へに不満であつたと見え、其席を退いた時がある。この時に孔子は、「小人哉樊須也」と貶して居られた。茲ではその問ひの学問を為すに切実なるを称め、そして之れに教へて曰ふには、己の為すべきことをなし、其の報を思はないと徳は段々に積んで行くから之れが徳を高くする所以ではないと、前章の子張の問ひに対する答へのやうに反問しては教へて居る。常に自ら我が悪を攻めて之れを除き人の悪を攻めないならば、心の中にある悪念は匿るる所はないやうになる。之れが即ち慝を修むる工夫ではないかと教へられた。一時の小忿を耐へ忍ぶことが出来ないで、その身を忘れて人と争ふことがあれば、その禍が親兄弟にも及ぼして大害をなすに至るものである。之れは最初に小忿を忍ぶことが出来なかつた結果であるが、要するに事の大小を弁ぜない所の惑であるからである。既に惑であることを知つたならば、之れを弁別することは決して至難なものではない。故に事の大小軽重を知ると云ふことは惑を弁ずる工夫であると教へられた。之れは樊遅の人となりが野卑で利を思ふことが多いので、この三つの事柄によつて之れを戒めたのである。
 儒教孔子の教へは何時でも、形より内実を先きに改めて行くことが根本思想になつて居る。前述の季康子の孔子に政を問うたのに対し、正を以て此を帥ゐると民は自ら正しくなるかと対へ、又民をして有道に就かしめるには無道を殺すよりも、子が善を欲する時は民は自ら善となるではないかと対へたのは、皆内から改善を要求して居る。権道や覇道によるよりも、常道によつて導くと云ふやうでなければならぬとして居る。是れが孔子の本旨とする所である。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)