15. 上に厳にして下に寛なれ
うえにげんにしてしたにかんなれ
(63)-15
季康子問政於孔子曰。如殺無道。以就有道。如何。孔子対曰。子為政。焉用殺。子欲善。而民善矣。君子之徳風。小人之徳草。草上之風。必偃。【顔淵第十二】
(季康子政を孔子に問うて曰く。如し無道を殺して、以て有道を就さば如何。孔子対へて曰く、子政を為す、焉ぞ殺を用ゐん。子善を欲すれば民善なり。君子の徳は風、小人の徳は草。草之れに風を上《くは》ふれば、必ず偃す。)
本章は政の働きを示し、政は勧善を貴び、悪を懲らすのは末であることを説いたものである。(季康子政を孔子に問うて曰く。如し無道を殺して、以て有道を就さば如何。孔子対へて曰く、子政を為す、焉ぞ殺を用ゐん。子善を欲すれば民善なり。君子の徳は風、小人の徳は草。草之れに風を上《くは》ふれば、必ず偃す。)
季康子は更に政治を孔子に問うて、善人は常に無道の人の為めに迫害されて居るから、無道の徒を殺して有道に就かしめたならば善いではないかと言つた。処が孔子は、政を為すに何も殺を用ふる必要はない。若し子にして善を好み善を行つたならば、民は之れに倣うて善に就き悪を去らしめることが出来るであらう。丁度、君子の徳は風、小人の徳は草のやうで、風吹かば草は必ず偃して之れに従ふと云つた。それなどは君子と小人との比喩として誠に適切なものである。
儒教の本体としては、位あるもの、勢力あるものは名誉と尊敬を受けて居る。従つて責任もあり、義務もあるので、之れを責むるに厳しくなければならぬ。所謂上に厳しく下に寛にする。之が又儒教の骨子である。世の中も亦この通りである。若し二人の間に争が起つた場合には、先輩即ち上位のものが悪いと見なければならぬ。如何に人は平等でなければならぬと云つても、上位のものは社会から受くる名誉、境遇が違ふから、上位のものが責任や義務を負はないで下級に及ぼすべきものでない。凡てのものが平等であると云つた処で、水が平等であつたら流れ行く処がなくなる。又上が清い水であれば下も清い水であるべきである。末者に不徳があつても、長者に徳があれば末者は直ちに直すことが出来る。会社にしても役所にしても将又個人の家にしても同様である。長者、末者のあることは現代に於て行はれても決して悪いことはないと思ふ。
- デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)