デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

10. 道義は本で法律は末

どうぎはもとでほうりつはすえ

(63)-10

子曰。聴訟吾猶人也。必也使無訟乎。【顔淵第十二】
(子曰く。訟を聴く吾猶ほ人の如きなり、必ずや訟なからしめん。)
 右は大学三章にある「子曰。聴訟、吾猶人也。必也使無訟乎。無情者不得尽其辞。大畏民志。此謂知本」とあるのと其の意味は同様である。孔子は訟を聴いて其の是非曲直を裁判することは、吾も人も同様で別に異る所はない。若し我と人との異る所を求めれば、吾は人心を正しくし、礼譲を教へて、その源を清くし、民をして訴訟して是非曲直を争ふことのないやうにすることである。人心を正しくすることは本であつて、法律などによることは末である。恐怖して悦服のないものは効果のないものである。為政篇に「子曰。道之以政。斉之以刑。民免而無恥。道之以徳。斉之以礼。有耻且格」とあると同様に解してよい。家族は小さいものであるけれども、大抵の家族が揖睦して茲に至つて居るのは、人情によつて結ばれて居るからである。故に之れを統一して行くに政刑を以てするよりも、徳礼によつて人心を正しくせしむる所まで進まなければならぬ。

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デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)