デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

6. 人倫を明かにするが国政の始め也

じんりんをあきらかにするがこくせいのはじめなり

(63)-6

斉景公問政於孔子。孔子対曰。君君。臣臣。父父。子子。公曰。善哉。信如君不君。臣不臣。父不父。子不子。雖有粟。吾得而食諸。【顔淵第十二】
(斉の景公、政を孔子に問ふ。孔子対へて曰く。君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たりと。公曰く。善い哉、信に如し君君たらず臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾れ得て諸《こ》れを食はんや。)
 孔子が斉の国に往かれた時、時の君主景公が政事の仕方を孔子に尋ねられた。夫子が之に答へて「君が君たるの道を尽し、臣が臣たるの道を尽し、父が父たるの道を尽し、子が子たるの道を尽すのが、政事の奥義で御座いまする」と言はれたのである。景公之れを聞かれて大に感服され「全く善い事である。誠に若し君たるの道を尽さず、臣は臣たるの道を尽さず、父は父たる道を尽さず、子は子たる道を尽さぬに於ては、例ひ米や粟が山の如く有つても、吾れはどうして心配なく之を食ふ事が出来ようぞ」と共鳴した。之れが此の章の大意である。
 孔子は曾て斉の国に赴いて景公に仕官せんとした事があつたが、妨げられて其事なくして止んだ。此の章はどういふ場合の問答であるか明かでないが、当時景公は沢山の妾を蓄へ、太子も立てず、大夫の陳氏が厚く国に施して民望を収めて居つたので、君臣父子の間、皆其の道を失ひ、政を失して居つた。孔子は此の時弊を察して、国政は先づ人倫を明かにするに在る事を説かれたのである。景公は孔夫子の言葉を聞いて大に感服はしたけれども、其の言葉を用ひて行ひを改め、君父たるの道を尽す事をせず、依然として放逸に流れて居つた為め、後に至つて果して国乱れ、斉の国を陳氏に奪はるるに至つた。若し景公にして孔子の言に聞いて、人倫を正し、国政に意を注いだならば、恐らく此のやうな禍を招くやうな事はなかつたらうと思はれる。

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デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)