デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

9. 無欲は公正を得るの道である

むよくはこうせいをえるのみちである

(63)-9

子曰。片言可以折獄者。其由也与。【顔淵第十二】
(子曰く。片言以て獄を折《をさ》むべき者はそれ由か。)
 この章は子路は正直であるから、物を判断するに公正であつた。為めに其の言ふ所は人々が皆信じたので、孔子は之れを称し、原被の両者は互に己の利を主張して、容易に決し難い訴訟でも僅か一言半句を以て判決し、而も原被の両者を信服せしめ得るものは、子路のみであらうかと云つて子路を大いに称揚したのである。けれども孔子は決して子路の全部を称めて居ない。公冶長篇に「子曰。道不行。乗桴浮於海。従我者其由与。子路聞之喜。子曰。由也。好勇過我。無所取材」と云つて居るのは、決して子路の勇を称めたのではなく、寧ろ早まり過ぎることを戒めたのである。即ち孔子は称めるやうにしてからかつて居つたのである。処が子路は之れを実の事と思つて喜んだから、孔子は桴を作る大木は今は何処にも得ることが出来ぬ。従つて実行も不可能であると言はれた。又由也喭と称し、子路の粗俗にして文采のないことを言はれたのも皆その時に応じての言である。併しながら孔子は又事の善悪を片言にして見分けるのは、子路の如き無欲敏活なる人でなければ、その速断は出来ないと言はれたのである。
子路無宿諾。【顔淵第十二】
(子は諾を宿することなし。)
 この章は孔子の語ではないけれども、同門の人の記してあつたものを編者が前の孔子の語に因つて、此処に類記したと云ふことである。これは子路の果断の人であつたことを現はしたもので、一旦承諾したことは直ちに実行しないといふことがない。然るに今日の政府の役人などはどうであらうか。果して諾を宿することのないやうなことをやつて居るであらうか。又、総理大臣などに対しても之れを言はれないこともないではないと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)