5. 徳も惑ひも平素の修養に在る
とくもまどいもへいそのしゅうようにある
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又人間には迷ひが有り勝ちのものである。普通七情といつて、人には愛するとか、憎むとか、欲するとかいふ情があるものであるが、此の私情に蔽はれると物事を正しく観る事が出来ない。随つて正しい判断をする事が出来ない。其所に惑ひがあるのである。之れは畢竟、物事に臨んで私情に捉はれるからである。孔夫子は七情の発動が勉めずして理に適うて居られた。悲しむべき時に悲しみ、悦ぶ可き時に悦び[、]所謂、喜、怒、哀、楽、愛、憎、欲が最も自然的であつた。之れも亦平素の修業による処であるが、此の惑ひを去るには「子四つを絶つ、意なく、必なく、固なく、我なし」と子罕篇にもある如く、常に私情を遠ざけて、大公至正、事を義しきに適する様に心懸けたならば惑はざる人となり得よう。
- キーワード
- 徳, 惑ひ, 平素, 修養
- 論語章句
- 【子罕第九】 子絶四。毋意、毋必、毋固、毋我。
- デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)