デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

5. 徳も惑ひも平素の修養に在る

とくもまどいもへいそのしゅうようにある

(63)-5

 人として徳を修むる事の必要である事は、今更事新しく謂ふまでもない。如何に唯物主義の世の中であつても、徳のない者は世人から尊敬されない。譬へば政事の衝に当るにしても、為政者に徳がなかつたならば人民が心服せず、治績を挙げる事は出来ない。又会社の重役にしても、工場の主任者にしても、徳がなかつたならば、能く部下を統率して行く事は出来ぬものである。然しながら徳を積むといふ事は、一朝一夕で出来るものではない。常に忠信を主とし、毫も自分の良心を欺くやうな事なく、若し自分の考へや行ひに過失があつたならば、義しきに遷して過ちを補ひ、私情を蔽ふやうな事がないやうに勗めたならば、知らず識らずの中に徳が積まれて、何時とはなしに他人からも尊敬せらるるやうになるものである。
 又人間には迷ひが有り勝ちのものである。普通七情といつて、人には愛するとか、憎むとか、欲するとかいふ情があるものであるが、此の私情に蔽はれると物事を正しく観る事が出来ない。随つて正しい判断をする事が出来ない。其所に惑ひがあるのである。之れは畢竟、物事に臨んで私情に捉はれるからである。孔夫子は七情の発動が勉めずして理に適うて居られた。悲しむべき時に悲しみ、悦ぶ可き時に悦び[、]所謂、喜、怒、哀、楽、愛、憎、欲が最も自然的であつた。之れも亦平素の修業による処であるが、此の惑ひを去るには「子四つを絶つ、意なく、必なく、固なく、我なし」と子罕篇にもある如く、常に私情を遠ざけて、大公至正、事を義しきに適する様に心懸けたならば惑はざる人となり得よう。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)