デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一

4. 徳を崇くし惑ひを弁ずる道

とくをたかくしまどいをべんずるみち

(63)-4

子張問崇徳弁惑。子曰。主忠信。徙義。崇徳也。愛之欲其生。悪之欲其死。既欲其生。又欲其死。是惑也。誠不以富。亦祇以異。【顔淵第十二】
(子張徳を崇くし、惑ひを弁ぜん事を問ふ。子曰く、忠信を主とし義に徙るは徳を崇うするなり。之を愛しては其の生きんことを欲し之を悪みては其の死せん事を欲す。既に其の生を欲し、又其の死を欲す、是れ惑ひなり。誠に富を以てせず、亦祇《まさ》に異を以てす。)
 子張は孔門の十哲ではないが、却々議論家であつて、論語の中にも難かしい質問を発して孔子の教を請うてゐる。此の章は、子張が徳を高く積み上る仕方と、心の惑ひを見分くる仕方とを質問せるに対し、孔子の答へられたもので、「徳を高くするには、忠信を主として――即ち自分の誠を推して人に親切を尽し、信実にして虚言を吐かぬ事を主眼とし、且つ不義を避けて義に遷り、其の及す所が皆義に合して過失がなければ、自ら徳を高める事が出来るものである。又、愛憎は人情の常であるけれども、其の極、之れを愛する時は其の人の長生せん事を望み、之を悪む時は其の人の早死にせんことを欲するに至るものである。既に其の人の生きん事を望み、又其の死せんことを欲するは是れ其の人の善不善を以て愛したり憎んだりするのではなく、私情を以て動かされるので是れ惑ひである。人に定見がない時は、一時の愛憎によつて心の惑ふものであるから、私情を去つて如何なる場合でも毅然たる態度を以て事に臨めば、其の惑ひを見分くる事が出来るものであると説かれ、尚ほ詩経の小雅の部にある「誠に富を以てせず、亦祇に異るを以てす」の句を例証して、人間の称美する所は富にあらずして行ひに在る事を説明し、徳を修め身を慎しむ事の最も必要である事を補足されたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(63) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.520-531
底本の記事タイトル:三五〇 竜門雑誌 第四二〇号 大正一二年五月 : 実験論語処世談(第六十一《(三)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第420号(竜門社, 1923.05)
初出誌:『実業之世界』第19巻第10-12号,第20巻第1号(実業之世界社, 1922.10.11.12,1923.01)