デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149

子曰。巧言令色足恭。左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人。左丘明恥之。丘亦恥之。【公冶長第五】
(子曰く、巧言令色足恭は、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。怨みを匿して其人を友とするは、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。)
 巧言令色の宜しからぬものである事は、既に「学而篇」の「巧言令色鮮矣仁(巧言令色鮮きは仁)」の章句を挙げて談話した際に詳しく申述べ置いたから、茲には重ねて談話するのを省略致すが、「足恭」は「スウキヨウ」と読むべきもので、「恭謙の度に過ぐる事」をいふのである。他人に取入らうとして、世辞軽薄を並べ、先方の気色を窺つて自分の色を変へ、先方の意を迎へて私利を計らうとするのが目的で、腹にも無い謙遜をして、馬鹿々々しいほど下手に出て見せたりなぞすることは、苟も心ある者の恥づる処であるから孔夫子の先輩たる左丘明の如き、素より之を恥ぢたものであるが、孔夫子とても亦、左丘明と等しく斯る行為に出づるを恥辱なりとせられ、殊に腹の中では憎くつて憎くつて堪らぬほどの人に対しても、面と対つては何喰はぬ顔を装ひ、友達のやうな顔を作つて相交る如きは深く恥辱とする処であるぞ、と仰せられたのが、茲に掲げた章句の意味である。
 世間には腹の中で「ナニ!斯の馬鹿野郎が……」と思つて侮蔑の念を懐いて居る癖に、其人の前に出た時ばかりは如何にも其人を尊敬するかの如く見せかけ、背後に廻つて直ぐ紅い舌をペロリ出したりなぞして居る者がある。孔夫子ならぬ私でさへもそんな行為は兎ても恥しくつてできるもので無い。依て私は如何なる御仁に対しても、御同意のできぬ事はできぬと瞭然申す事に致して居るが、自分の流義と全く違ふ流義の人に対しても猶ほ同意せるかの如くに見せかけて居れば、遂には情実に余儀なくされて、之に曲従せねばならぬやうな事になつたりもする。
 されば厭やな人だ好かぬ人だと思ふやうな人とは、斯の心を匿くしてまでも強ひて友達交際をしてゆく必要の無いものと私は思ふのである。怨を匿くして友達交際をされたのでは、交際はれる方に取つても其の実非常な迷惑である。あの人は自分に同意同感の人だと思つて居たところを、何かの事で愈よ瀬戸際といふ処になつてから、ヒヨイと肩を外されてしまつては総ての計画に狂ひが来て、飛んでも無い馬鹿を見ねばなら無くなる。故に、怨を匿くして其人を友とする事は単に卑怯の行為たるのみならず、先方の人に対しても尠からぬ損害を懸けることになるから、深く慎まねばならぬものである。
 然し、人の心は猶ほ其面の異る如く千差万別のもの故、総て之を一列一体に自分の心の傾向と同じものにしてしまはうとしても、それは兎てもできるものでは無い。自分は自分の流義によつて、自分の行くべき道を進み、他人は他人の流義によ[つ]て、是れ又その行かうとする道に進ませるより他に法の無いもので、自分と違つた流義の人を無理から自分の流義に屈服させようとしても、其れは駄目である。いろいろと流義の異つた人間が寄り合つて、敢て大した喧嘩もせず、和衷協同相助け相進んでゆくところに世の中の面白味はあるのである。
 随つて、自分の気に合はぬ人に対してだからとて、「貴様は大馬鹿者だ」と、頭から啀みつけて罵るにも及ばぬ事である。如何に、怨を匿くして交るのが人の道で無いにしても、それでは礼といふものが無くなつてしまうことになる。礼を守つて併も巧言令色足恭に流れぬやうにするのが七分三分の均衡で、世に処するに当[つ]て誠にむづかしい処であるが、礼はいろいろと流義の異つた人を寄せ集めて之を一つに纏め、世の中を進歩さしてゆくに必要な膠の如きものである。如何に巧言令色足恭は人の恥づるところであつても、礼を失ふやうになれば世の中は全く乱脈になつて了うものである。
顔淵季路侍。子曰。盍各言爾志。子路曰。願車馬衣軽裘。与朋友共敝之而無憾。顔淵曰。願無伐善。無施労。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懐之。【公冶長第五】
(顔淵、季路侍す。子曰く、盍ぞ各爾の志を言はざる。子路曰く、願くは車馬衣軽裘、朋友と共にし、敝りて憾み無けん。顔淵曰く、願くは善に伐こと無く労を施すこと無けん。子路曰く、願くは子の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。)
 茲に掲げた章句は、御弟子の顔淵と、仲氏の季つ子なるが故に「季路」とも称せられた子路とが、孔夫子の御座所に侍して居つた際に、孔夫子が「各自勝手に自分の志を述べて試るが可い」と仰せられたので、之に対し顔淵、子路両人の答へたところと、次で孔夫子が御自分の志を談られたところとを叙したものであるが、子路が孔夫子よりの御尋ねあるや、言下に其声に応じ、卒爾として威勢よく談り出でた辺は、其間に如何にも子路の子路たる元気の佳いところを彷彿たらしめて居る。子路の言にある「衣」とは絹の衣服、「軽裘」とは狐の毛皮で調製した衣類のことで、「衣」も「軽裘」も共に上等衣服であるが互に相容した朋友と之を共にする事ならば、一つの車に二人乗り、一匹の馬に二人跨り、一枚の上等な衣を二枚に割いて着、之をボロボロにしたからとて敢て憾むるところは無い――何うぞ斯ういふ朋友を得て、苦楽を共にしながら一生を送りたいものだ、といふのが、子路の志であつたのである。子路の真摯なる温情は実に能く斯言の中に流露して居るでは無いか。
 顔淵に至つては、仙人らしい哲学者肌の人であつたものだから、哲学者らしく仙人らしく、「自分は他人に善を施しても善を施したやうな顔をせず、又自分でできる事ならば何んでも労を厭はず自分で之を自らし、他人に労を押しつけるやうな事を仕度無いといふのが、自分の志である」と申述べたのである。顔淵の志には、子路の志に比ぶれば、深遠な内省的な処がある。然し、孔夫子の御志に至つては、全く図抜けた大きなところがあつて、大人の大人たるところが顕れ、「老者に対しては之に安心を与へて悠乎致させるやうにし、朋友とは信じて相交り、若い者は可愛がつて懐け導くやうに致したいものだ」と談られたのである。
 子路、顔淵、孔夫子――この三人の志を斯く並べて置いて観ると、其処には三段に段がついているかの如くに思はれる。子路の志は通俗的で低く、顔淵の志には更に進んだ高尚なところもあるが、ユツクリした包容的な趣が無い。孔夫子の御志に至つては、海の如く広く有らゆる人に対するに仁を以てするといふ包容的なところが顕れて居る。
 渋沢喜作は私の親類の者であつたから、同人と私との関係等に就き私より申述ぶるのは私の甚だ憚る処である。然し、強ひてとの事ならば談話致しもするが、喜作と私との関係は、車馬衣軽裘を共にし、之を敝つて憾無し以上の間柄で、喜作の為には私も数回に亘つて随分甚い迷惑を懸けられて居る。それでも、同人の相続人になつて居る横浜(キ)商店の当主渋沢義一と私との間が、今日全く実の親子の如くであつて、私は義一を子の如く思ひ、義一も亦私を実の父の如くに思ひ、無上の親密を維持して居られるのは、及ばずながら私に車馬衣軽裘之を朋友と共にすれば、仮令敝れても憾無しと云ふ志があつたからの致す処であらうと思ふのである。
 喜作の父と私の父とは実の兄弟であつたのだから私と喜作とは従兄弟の親族関係になるのだが、喜作は私よりも二歳の年長者であつた。何事にも私と喜作とは幼年の頃より二人揃つて行つて来たもので、漢学も尾高惇忠先生に就て一緒に稽古し、居村の世話も二人で一緒になつて行つたものである。何か居村に事件が起つても、渋沢の二人が出て来れば話が纏まるとさへ謂はれて居つたものであつたが、漢学の造詣は多少私の方が喜作よりも深かつた。又、性質の上から謂つても大に其傾向を異にしたところがあつて、私は何事にも一歩々々着々進んで行かうとする方であるに反し、喜作は一足飛びに志を達しようとする投機的気分があつた上に、猶ほ他人を凌がうとする気象もあつたので、まさか私に対しては爾んな事もし得なかつたが、往々私なんかをさへ凌ぎかねまじき風を示したものである。二人は幼年より何事も一緒に揃つて行つて来たに拘らず、これが私と喜作との著しい相違点であつたのである。
 さて、喜作と私とは共に埼玉県血洗島の居村に於て尾高先生を師と仰ぎ其弟子となつて漢学を勉強して居るうちに、世の中が段々と騒しくなつて参り、幕末の時勢と相成つたので、私が廿四歳、喜作が廿六歳の時に二人とも尊王倒幕攘夷の志を起し、相携へて郷関を出て江戸に参るやうになつた次第は、既に是れまで談話したうちに申述べて置いた通りである。
 江戸に出てから幕府の詮議が厳しくなつて来たので、京都へ参るやうになつた時も私と喜作とは素より一緒で、一橋家に仕へるやうになつた時も二人は猶且一緒であつた。そのうちに慶喜公が第十五代の征夷大将軍になられたところで、慶応三年正月十一日、私は水戸の民部公子の扈従を致して仏蘭西へ洋行する事になり、幕府の臣とならずに済んでしまつたのであるが、跡に残つた喜作は、慶喜公に御附き申して一橋家より幕府に入り、幕府に仕へて奥祐筆を勤めるまでに出世したのである。
 当時祐筆には役向きが二つあつて、一を表祐筆といひ、一を奥祐筆といつたものだが、表祐筆は昨今で申せば内閣書記官長の如きもので奥祐筆は文事秘書官長と法制局長官を兼ねたやうな要職に相当し、幕府の老中に対しては却々侮り難き勢力あり、老中たちよりは頗る煙がられたものである。斯くの如き次第で喜作は慶喜公に重用せられ、大に出世したのであるが、其うち慶応三年の暮と相成、慶喜公は大政を奉還せられ、王政復古の御一新といふ事になると共に伏見鳥羽の戦争が起つたので、喜作は幕軍に与みし、軍目付の役で伏見鳥羽の方面へ出陣したのである。
 ところが伏見鳥羽で幕軍が官軍を相手にして盛んに戦つてる間に、それまで大阪城に在らせれた慶喜公におかせられては忽然として大阪港より軍艦で江戸に脱け出られ、謹慎の意を表せらるる事になつたので、伏見鳥羽で戦つて居つた幕軍の連中はしばし呆気に取られて開いた口が塞がらず、何んとも仕様が無くなつてしまつたのであるが、喜作に於ては当時、慶喜公の御真意のあるところが解らず、猶且生命が惜しくなつて公は大阪から江戸へ逃げてしまはれたものとばかり思ひ込んだと見え、伏見鳥羽の戦場より窃かに直ぐ江戸へ出で、同志を糾合して官軍に抗する計画を起したのである。之には勿論喜作の性分たる投機的気分は大分手伝つたのである。
 この時に、喜作と共に斯の計画に参与したものが、私及び喜作に取つては漢学の師匠になる尾高惇忠で、尾高先生が参謀総長の格で、東叡山座主輪王寺宮を擁し、上野に立て籠り官軍と干戈を交ふる事になつたのであるが、彼の有名なる彰義隊は全く喜作が発頭人となつて組織したもので、「彰義隊」なる隊名は尾高先生が命名せられたのである。ところが、前条にも一寸申述べた如く、喜作には他人を凌がうとする気質があつたものだから、喜作は隊長であつても、兎角副長の天野八郎以下と合はず、加ふるに幕府譜代の臣であるといふのでも無く慶喜公に随従して幕府に入り、始めて幕臣になつたものであるなぞの関係もあつて、譜代出身側の隊員との折合を失ひ、遂に喜作は彰義隊より脱退し、新たに一隊を組織することになつたのである。
 喜作が彰義隊を退いた時には尾高惇忠も亦一緒に退き、これも尾高先生の命名した名だらうと思ふが、新たに喜作の組織した隊は「振武軍」と称せられ、武州西多摩郡田無に集合し、其処で旗揚をしたのである。当時、振武軍は世間から彰義隊の別働隊なるかの如くに目せられて居つたが、実は彰義隊中の旧幕臣側の分子と相容れなかつた連中が別れて新たに組織した全然別個独立の一隊であつたのである。振武軍は田無で旗揚をしてから漸次秩父方面に進軍し、同所に立て籠り、最後まで官軍に抗して之を悩ましてやらうと云ふ計画を立てたが、進軍の途中を偶々官軍たる芸州藩の兵に阻まれ、埼玉県飯能に於て官軍と戦ふ事になつたのである。素より衆寡敵し難く、加ふるに烏合の兵であつたから一戦忽ち振武軍の敗北と相成つたので、隊員はチリ〴〵バラ〳〵に潰乱してしまひ、尾高惇忠は其儘郷里血洗島に帰られたが喜作のみは逃れて私かに又再び江戸に出で、榎本武揚の軍に投じて幕府の軍艦回陽丸に乗じ函館に赴き、五稜廓に立て籠ることになつたのである。
 明治四十一年十月二十六日七十三歳で歿くなられた子爵の榎本武揚さんは、生つ粋の江戸つ子で、幕府の勘定役榎本園兵衛といふ方の次男で、初めお茶の水の聖堂に学び、それから嘉永六年長崎に遊学して和蘭人に就き蒸汽機関に関する学問やら航海術などを学んで、後暫らく幕府の海軍操練所教授を勤められ、和蘭に留学して更に海軍に関する研究を続けて居られるうち、偶々丁墺戦争の起るに会して其戦況を視察し、慶応二年帰朝せられて軍艦乗組頭取、唯今で申す艦長に任ぜられ、次いで海軍奉行に昇進し、大いに新知識を発揮して居られた処へ、慶応三年大政奉還といふ事になるや、奥州諸藩の士は之に反抗し榎本さんは軍艦の操縦もできるからといふので之を大将に推し立て、幕府の軍艦回陽丸に乗組み函館へ脱走する事になつたのである。当時榎本さんは北海道を日本本島から分離して一独立国を建立し、之を共和政治で治めてゆかうとの考へを持つて居られたとの事である。渋沢喜作は、この一隊に加はつて回陽丸に乗込み、函館五稜廓に立て籠る事になつたのであるが、同志のうちには沢太郎左衛門なぞいふ名士もあつたのである。
 榎本さんの軍は函館五稜廓に立て籠つてるうちに、一二度官軍と小さな戦もしたやうであるが、征討総督の参謀黒田清隆さんから、利害を説いて降伏を勧告したので、榎本さんも其気になつて勧告に応じ降伏する事となり、喜作は榎本さんと共に、官軍に降伏し、その結果、三年間陸軍の檻倉に入牢申付けられ、囹圄の人となつたのである。然し明治四年に至り赦されて愈よ出獄の事になるや、親類の者が誰か受取の為に来いといふので、私は其の時既に仏蘭西より帰朝し大蔵省に出仕して居つたものだから、私が喜作の親類として同人を受取に出頭し、伴れて帰つたのである。
 喜作が赦免になつてから、さて何うしたら可いものかと種々勘考の末、結局、私より同人の力量人物等の詳細を井上さんに談つて推薦し井上さんもそんなら使はうといふ事で大蔵省の勧業課に採用し、奏任待遇で勧業事務を取扱はせる事にしたのである。然し、陸軍の檻倉から出て来て見れば、私は当時既に大蔵省の少輔格であつたものだから喜作は私よりも二歳の年長であるのに私の下風に就かねばならなかつたので、多少不快でもあつたらうが、一旦朝敵になつて降伏した上に陸軍の檻倉にまで入れられたのだから之も止むを得ない事である。さればとて喜作は私に対して敢て反抗したといふわけでも無かつたが、元来が少し他を凌がうとする性分の男であつたから甚だ不平らしく見受けられたのである。
 依て私は兎に角一度洋行して来るが可からうと勧め、又当人に於ても未だ一度も行つた事が無いから是非爾うして欲しいものだとの希望があつたところより、翌る明治五年、蚕業取調べの名目で伊太利へ留学仰付けられる事になつたのである。然し蚕業取調べは単に名目だけのことで、実際は欧洲の状況を視察するにあつたのだが、明治六年に帰朝して見れば、私は既に大蔵省を辞して民間に下り、又井上さんも辞職してしまはれてゐたので、栄一も井上さんも居らぬ知己の乏しい官界にあつたからとて、別に面白くも無い故、自分も官途を退きたいとの事であつたのである。之には私も同感であつたものだから、喜作は帰朝早々官を辞することになつたのであるが、私には当時既に銀行業に従事しようとの意志があつたので、喜作と私と同じ事を行るでもなからうと、私より喜作を小野組糸店の総管古河市兵衛の参謀に推薦したのである。然し不幸にも翌七年に至り小野組は破産して倒れてしまつたので、喜作も小野組を去らねばならぬやうになつたのである。
 今度は独立で何か商売を営つて見たいといふのが喜作の希望であつたので、「そんなら、蚕糸と米とを営つて見るが可い。私も及ばずながら力を添へよう」と私は喜作に勧めたのである。私は米は最も広い商売で、日本中一人として米を食はぬものなく、米商売ならば発展しさへすればいくらでも大きくなれるものだと考へ、又蚕糸は国内のみならず将来大に外国よりの需要もあるものと思うたから、斯く喜作に勧めたのであるが、喜作も私の言を容れて米と蚕糸とを商売に致すことになつたのである。目下横浜にある(キ)糸店の濫觴は実に茲にあるのである。
 ところで米と蚕糸とを商売にして居る間に元来投機心の旺んな男であるから、喜作は遂に米相場に手を出して大失敗を招き、明治十四年に至り、十数万円の大損失を招いたのである。その際私は喜作が致した借金の保証人にもなつて居つたものであるから私が引受けて、その損失を弁済整理してやつたのであるが、以後喜作に於ては米相場に一切手を出さずに、米は現物の委托販売のみとし、専ら生糸のみを取扱ふ事を条件にしたのである。
 整理をしてやつてから三四年は神妙に穏しく慎んで居りもしたが、持つて生れた投機心は却々止まぬものと見え、明治十八年頃より、喜作は弗相場といふものに手を出したのである。当時株式会社といふものが殆ど無く、取扱ふに足る丈けの株券も無かつたものだから、今日のやうに株の相場といふものが建たなかつた代り、明治十年の西南戦争で政府が紙幣の乱発を行つて以来、貨幣と紙幣との間に価格の差を生じ、その差に変動があり、又金銀貨の間に比価の変動もあつたりしたので銀塊の相場が行はれたのであるが、之を称して弗相場と謂つたものである。
 元来相場なるものは実物を売買するので無く、景気を売買するのであるから、その道具に使はれるものは米と株とに限つたもので無い。品物は何んでも可いのである。依て株券の無い明治廿年頃には銀の如き価格に変動を生じ易いものが道具に使はれて、弗相場なるものが行はれたのである。私は相場を一切行らぬと決心して来たから、今日まで相場で拾円の金を儲けたことも無いが、又損した事も無い。然し、行り始めると却々面白いものださうで、容易に廃められぬとの事である。喜作が矢張廃められなかつたものと見え、米相場で既に多大の失敗を招き、随分他人にも迷惑を懸け居るに拘らず又懲り性もなく弗相場をはじめたのであるが、今度の失敗は米相場で失敗した時の如く生優しいもので無く、銀行に懸けた損害ばかりでも五十万円、その他にも猶ほ二十万円ばかりの借金があつたから合計七十万円といふ大損矢であつたのである。それが恰度明治二十年の事である。
 喜作が明治二十年の弗相場失敗で七十万円の損失を招いた際に、銀行から借りて居つた金に対して、私は別に保証人になつてたのでも何んでも無い。第一銀行の横浜支店長を致して居つたものに、手抜かりな不注意があつた為めで、銀が外国商館に搬入されて預けられてあるものとのみ思ひ込み、之を抵当にして貸付けたところが、一旦破綻が暴露れて見ると、外国商館には銀が預けられて居つたのでも何でも無く、銀は既に喜作の手を離れてしまつたので貸付けた丈けが銀行の損害になつたのである。私としては其際保証人になつて居つたのでも何んでも無いから、其儘にして済ませば済まされぬでも無く、又銀行の方にも此際喜作を潰しても可いから取れる丈け取つて埓を明けようなぞとの意見も無いでは無かつたが、私と喜作とは幼少の頃より生死を共にして来た間柄でもあり、ムザ〳〵喜作の商売まで潰してしまうのも惜しい事だと私は思つたので、茲に子路の所謂「車馬衣軽裘、朋友と共に之を敝りて憾み無し」の気になつて、喜作が若し隠居して店を長男の作太郎に譲り一切家業に関係せぬといふ事ならば、私に於て喜作の失敗した跡を引受け、整理してやらうと申したのである。喜作も悦んで之に同意し、自分は隠居して店を譲り、家業には一切口出しも手出しも致さぬによつて、是非整理を私に依頼したいとの事であつたので、私は二十年計画で七十万円の借金を返済する案を立て、私より毎年一万円づゝ自分の金を持ち出し、之に糸店より年々揚る利益金の内より三万円なり五万円なりを加へて返済する事にしたのであるが、幸に喜作の隠居した跡を引継いだ長男の作太郎は全く父と異つた性質で、店を引受けた当時は漸く三十五歳であつたが、投機心も無く至極実着で、其上相応に才もあつたものだから、家業は日増しに繁昌し、二十年計画ではじめたものが二十年を要せず僅に十二年で七十万円の借金を総て皆済してしまつたのである。依て、私は十二年間に十二万円を喜作の跡仕末を致す為に借金したことになるのであるが、これで結局誰方様にも御迷惑を懸けずに済んだのである。
 然し、惜しい事に作太郎は数年前に歿してしまつたので、其跡を喜作の三男義一が継いで、横浜の(キ)糸店を経営して居るのであるが、義一も亦、喜作と異ひ投機心等は毫も無く、至つて着実真摯で又才もあるから、作太郎の歿したにも拘らず糸店は頗る能く繁昌して居るのである。喜作も隠居してからも自分単独で色々やつて二三度失敗し、それで又私に迷惑を懸けたりなぞした事もあるが、その都度、大した事でも無かつたから、私が相変らず世話をして片付けてやり、晩年は自分の隠居してから跡の糸店が旨く行つてるのを見て大層悦んで居られ何の心配も無くなつて歿せられたのである。私と今の当主義一との関係は全然親子の如くになつて、至極親密なる次第は、既に前条に申述べた通りである。
 私が喜作の招いた七十万円の借金を片付ける為に論語にある子路の意気を以て、毎年一万円づつ十二年間で合計十二万円だけ自分の金を出した際には、全く棄てる積であつたが、今日に相成つて見ればそれが不思議に廻り廻つて私の利益になつて居る。当主の義一が店主になる際、私が喜作の弗相場失敗跡片付の為に出金した斯の十二万円を、今俄に纏めて御返ししようとしてもそれは兎てもできぬことであるから、(キ)の財産やら暖簾やらは幾干ぐらゐになるものか、そこの処は判明せぬが、兎に角、十二万円に対する代償として(キ)の店の株を二分して、其の一半だけを差上げることに致したいから受取つて呉れとの事で、私も之を承諾し、(キ)の糸店を渋沢義一と私との共同経営に成る匿名組合とし、私は(キ)の店の株を半分持つ事になつたので、損をする時には其の損を半分受持たねばならぬ代り、利益があれば純益の半分が私に入るやうになつて居るのである。
 再昨年欧洲戦争の起つた際には生糸の売行が悪くなり、一時糸の値段も非常に下つたので、地方の製糸家に卸して置いた資金が毫も回収せられて来ぬ為に、数十万円の貸越となり、或は喜作が明治二十年に弗相場で失敗した際の如き大損害を蒙るのでは無からうかと心配もしたが、一昨年来糸価が非常に昇騰し、地方の製糸家は孰れも大きな利益を見るようになつたので、貸越しになつて居つた製糸資金を悉く回収し得た上になほ(キ)の店は若干の利益をさへ揚げ得るやうになつたので、義一も私も共に悦んで居る次第である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)