デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
子曰。巧言令色足恭。左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人。左丘明恥之。丘亦恥之。【公冶長第五】
(子曰く、巧言令色足恭は、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。怨みを匿して其人を友とするは、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。)
巧言令色の宜しからぬものである事は、既に「学而篇」の「巧言令色鮮矣仁(巧言令色鮮きは仁)」の章句を挙げて談話した際に詳しく申述べ置いたから、茲には重ねて談話するのを省略致すが、「足恭」は「スウキヨウ」と読むべきもので、「恭謙の度に過ぐる事」をいふのである。他人に取入らうとして、世辞軽薄を並べ、先方の気色を窺つて自分の色を変へ、先方の意を迎へて私利を計らうとするのが目的で、腹にも無い謙遜をして、馬鹿々々しいほど下手に出て見せたりなぞすることは、苟も心ある者の恥づる処であるから孔夫子の先輩たる左丘明の如き、素より之を恥ぢたものであるが、孔夫子とても亦、左丘明と等しく斯る行為に出づるを恥辱なりとせられ、殊に腹の中では憎くつて憎くつて堪らぬほどの人に対しても、面と対つては何喰はぬ顔を装ひ、友達のやうな顔を作つて相交る如きは深く恥辱とする処であるぞ、と仰せられたのが、茲に掲げた章句の意味である。(子曰く、巧言令色足恭は、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。怨みを匿して其人を友とするは、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。)
世間には腹の中で「ナニ!斯の馬鹿野郎が……」と思つて侮蔑の念を懐いて居る癖に、其人の前に出た時ばかりは如何にも其人を尊敬するかの如く見せかけ、背後に廻つて直ぐ紅い舌をペロリ出したりなぞして居る者がある。孔夫子ならぬ私でさへもそんな行為は兎ても恥しくつてできるもので無い。依て私は如何なる御仁に対しても、御同意のできぬ事はできぬと瞭然申す事に致して居るが、自分の流義と全く違ふ流義の人に対しても猶ほ同意せるかの如くに見せかけて居れば、遂には情実に余儀なくされて、之に曲従せねばならぬやうな事になつたりもする。
然し、人の心は猶ほ其面の異る如く千差万別のもの故、総て之を一列一体に自分の心の傾向と同じものにしてしまはうとしても、それは兎てもできるものでは無い。自分は自分の流義によつて、自分の行くべき道を進み、他人は他人の流義によ[つ]て、是れ又その行かうとする道に進ませるより他に法の無いもので、自分と違つた流義の人を無理から自分の流義に屈服させようとしても、其れは駄目である。いろいろと流義の異つた人間が寄り合つて、敢て大した喧嘩もせず、和衷協同相助け相進んでゆくところに世の中の面白味はあるのである。
随つて、自分の気に合はぬ人に対してだからとて、「貴様は大馬鹿者だ」と、頭から啀みつけて罵るにも及ばぬ事である。如何に、怨を匿くして交るのが人の道で無いにしても、それでは礼といふものが無くなつてしまうことになる。礼を守つて併も巧言令色足恭に流れぬやうにするのが七分三分の均衡で、世に処するに当[つ]て誠にむづかしい処であるが、礼はいろいろと流義の異つた人を寄せ集めて之を一つに纏め、世の中を進歩さしてゆくに必要な膠の如きものである。如何に巧言令色足恭は人の恥づるところであつても、礼を失ふやうになれば世の中は全く乱脈になつて了うものである。
顔淵季路侍。子曰。盍各言爾志。子路曰。願車馬衣軽裘。与朋友共敝之而無憾。顔淵曰。願無伐善。無施労。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懐之。【公冶長第五】
(顔淵、季路侍す。子曰く、盍ぞ各爾の志を言はざる。子路曰く、願くは車馬衣軽裘、朋友と共にし、敝りて憾み無けん。顔淵曰く、願くは善に伐こと無く労を施すこと無けん。子路曰く、願くは子の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。)
茲に掲げた章句は、御弟子の顔淵と、仲氏の季つ子なるが故に「季路」とも称せられた子路とが、孔夫子の御座所に侍して居つた際に、孔夫子が「各自勝手に自分の志を述べて試るが可い」と仰せられたので、之に対し顔淵、子路両人の答へたところと、次で孔夫子が御自分の志を談られたところとを叙したものであるが、子路が孔夫子よりの御尋ねあるや、言下に其声に応じ、卒爾として威勢よく談り出でた辺は、其間に如何にも子路の子路たる元気の佳いところを彷彿たらしめて居る。子路の言にある「衣」とは絹の衣服、「軽裘」とは狐の毛皮で調製した衣類のことで、「衣」も「軽裘」も共に上等衣服であるが互に相容した朋友と之を共にする事ならば、一つの車に二人乗り、一匹の馬に二人跨り、一枚の上等な衣を二枚に割いて着、之をボロボロにしたからとて敢て憾むるところは無い――何うぞ斯ういふ朋友を得て、苦楽を共にしながら一生を送りたいものだ、といふのが、子路の志であつたのである。子路の真摯なる温情は実に能く斯言の中に流露して居るでは無いか。(顔淵、季路侍す。子曰く、盍ぞ各爾の志を言はざる。子路曰く、願くは車馬衣軽裘、朋友と共にし、敝りて憾み無けん。顔淵曰く、願くは善に伐こと無く労を施すこと無けん。子路曰く、願くは子の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。)
顔淵に至つては、仙人らしい哲学者肌の人であつたものだから、哲学者らしく仙人らしく、「自分は他人に善を施しても善を施したやうな顔をせず、又自分でできる事ならば何んでも労を厭はず自分で之を自らし、他人に労を押しつけるやうな事を仕度無いといふのが、自分の志である」と申述べたのである。顔淵の志には、子路の志に比ぶれば、深遠な内省的な処がある。然し、孔夫子の御志に至つては、全く図抜けた大きなところがあつて、大人の大人たるところが顕れ、「老者に対しては之に安心を与へて悠乎致させるやうにし、朋友とは信じて相交り、若い者は可愛がつて懐け導くやうに致したいものだ」と談られたのである。
子路、顔淵、孔夫子――この三人の志を斯く並べて置いて観ると、其処には三段に段がついているかの如くに思はれる。子路の志は通俗的で低く、顔淵の志には更に進んだ高尚なところもあるが、ユツクリした包容的な趣が無い。孔夫子の御志に至つては、海の如く広く有らゆる人に対するに仁を以てするといふ包容的なところが顕れて居る。
喜作の父と私の父とは実の兄弟であつたのだから私と喜作とは従兄弟の親族関係になるのだが、喜作は私よりも二歳の年長者であつた。何事にも私と喜作とは幼年の頃より二人揃つて行つて来たもので、漢学も尾高惇忠先生に就て一緒に稽古し、居村の世話も二人で一緒になつて行つたものである。何か居村に事件が起つても、渋沢の二人が出て来れば話が纏まるとさへ謂はれて居つたものであつたが、漢学の造詣は多少私の方が喜作よりも深かつた。又、性質の上から謂つても大に其傾向を異にしたところがあつて、私は何事にも一歩々々着々進んで行かうとする方であるに反し、喜作は一足飛びに志を達しようとする投機的気分があつた上に、猶ほ他人を凌がうとする気象もあつたので、まさか私に対しては爾んな事もし得なかつたが、往々私なんかをさへ凌ぎかねまじき風を示したものである。二人は幼年より何事も一緒に揃つて行つて来たに拘らず、これが私と喜作との著しい相違点であつたのである。
さて、喜作と私とは共に埼玉県血洗島の居村に於て尾高先生を師と仰ぎ其弟子となつて漢学を勉強して居るうちに、世の中が段々と騒しくなつて参り、幕末の時勢と相成つたので、私が廿四歳、喜作が廿六歳の時に二人とも尊王倒幕攘夷の志を起し、相携へて郷関を出て江戸に参るやうになつた次第は、既に是れまで談話したうちに申述べて置いた通りである。
当時祐筆には役向きが二つあつて、一を表祐筆といひ、一を奥祐筆といつたものだが、表祐筆は昨今で申せば内閣書記官長の如きもので奥祐筆は文事秘書官長と法制局長官を兼ねたやうな要職に相当し、幕府の老中に対しては却々侮り難き勢力あり、老中たちよりは頗る煙がられたものである。斯くの如き次第で喜作は慶喜公に重用せられ、大に出世したのであるが、其うち慶応三年の暮と相成、慶喜公は大政を奉還せられ、王政復古の御一新といふ事になると共に伏見鳥羽の戦争が起つたので、喜作は幕軍に与みし、軍目付の役で伏見鳥羽の方面へ出陣したのである。
ところが伏見鳥羽で幕軍が官軍を相手にして盛んに戦つてる間に、それまで大阪城に在らせれた慶喜公におかせられては忽然として大阪港より軍艦で江戸に脱け出られ、謹慎の意を表せらるる事になつたので、伏見鳥羽で戦つて居つた幕軍の連中はしばし呆気に取られて開いた口が塞がらず、何んとも仕様が無くなつてしまつたのであるが、喜作に於ては当時、慶喜公の御真意のあるところが解らず、猶且生命が惜しくなつて公は大阪から江戸へ逃げてしまはれたものとばかり思ひ込んだと見え、伏見鳥羽の戦場より窃かに直ぐ江戸へ出で、同志を糾合して官軍に抗する計画を起したのである。之には勿論喜作の性分たる投機的気分は大分手伝つたのである。
喜作が彰義隊を退いた時には尾高惇忠も亦一緒に退き、これも尾高先生の命名した名だらうと思ふが、新たに喜作の組織した隊は「振武軍」と称せられ、武州西多摩郡田無に集合し、其処で旗揚をしたのである。当時、振武軍は世間から彰義隊の別働隊なるかの如くに目せられて居つたが、実は彰義隊中の旧幕臣側の分子と相容れなかつた連中が別れて新たに組織した全然別個独立の一隊であつたのである。振武軍は田無で旗揚をしてから漸次秩父方面に進軍し、同所に立て籠り、最後まで官軍に抗して之を悩ましてやらうと云ふ計画を立てたが、進軍の途中を偶々官軍たる芸州藩の兵に阻まれ、埼玉県飯能に於て官軍と戦ふ事になつたのである。素より衆寡敵し難く、加ふるに烏合の兵であつたから一戦忽ち振武軍の敗北と相成つたので、隊員はチリ〴〵バラ〳〵に潰乱してしまひ、尾高惇忠は其儘郷里血洗島に帰られたが喜作のみは逃れて私かに又再び江戸に出で、榎本武揚の軍に投じて幕府の軍艦回陽丸に乗じ函館に赴き、五稜廓に立て籠ることになつたのである。
榎本さんの軍は函館五稜廓に立て籠つてるうちに、一二度官軍と小さな戦もしたやうであるが、征討総督の参謀黒田清隆さんから、利害を説いて降伏を勧告したので、榎本さんも其気になつて勧告に応じ降伏する事となり、喜作は榎本さんと共に、官軍に降伏し、その結果、三年間陸軍の檻倉に入牢申付けられ、囹圄の人となつたのである。然し明治四年に至り赦されて愈よ出獄の事になるや、親類の者が誰か受取の為に来いといふので、私は其の時既に仏蘭西より帰朝し大蔵省に出仕して居つたものだから、私が喜作の親類として同人を受取に出頭し、伴れて帰つたのである。
依て私は兎に角一度洋行して来るが可からうと勧め、又当人に於ても未だ一度も行つた事が無いから是非爾うして欲しいものだとの希望があつたところより、翌る明治五年、蚕業取調べの名目で伊太利へ留学仰付けられる事になつたのである。然し蚕業取調べは単に名目だけのことで、実際は欧洲の状況を視察するにあつたのだが、明治六年に帰朝して見れば、私は既に大蔵省を辞して民間に下り、又井上さんも辞職してしまはれてゐたので、栄一も井上さんも居らぬ知己の乏しい官界にあつたからとて、別に面白くも無い故、自分も官途を退きたいとの事であつたのである。之には私も同感であつたものだから、喜作は帰朝早々官を辞することになつたのであるが、私には当時既に銀行業に従事しようとの意志があつたので、喜作と私と同じ事を行るでもなからうと、私より喜作を小野組糸店の総管古河市兵衛の参謀に推薦したのである。然し不幸にも翌七年に至り小野組は破産して倒れてしまつたので、喜作も小野組を去らねばならぬやうになつたのである。
今度は独立で何か商売を営つて見たいといふのが喜作の希望であつたので、「そんなら、蚕糸と米とを営つて見るが可い。私も及ばずながら力を添へよう」と私は喜作に勧めたのである。私は米は最も広い商売で、日本中一人として米を食はぬものなく、米商売ならば発展しさへすればいくらでも大きくなれるものだと考へ、又蚕糸は国内のみならず将来大に外国よりの需要もあるものと思うたから、斯く喜作に勧めたのであるが、喜作も私の言を容れて米と蚕糸とを商売に致すことになつたのである。目下横浜にある(キ)糸店の濫觴は実に茲にあるのである。
整理をしてやつてから三四年は神妙に穏しく慎んで居りもしたが、持つて生れた投機心は却々止まぬものと見え、明治十八年頃より、喜作は弗相場といふものに手を出したのである。当時株式会社といふものが殆ど無く、取扱ふに足る丈けの株券も無かつたものだから、今日のやうに株の相場といふものが建たなかつた代り、明治十年の西南戦争で政府が紙幣の乱発を行つて以来、貨幣と紙幣との間に価格の差を生じ、その差に変動があり、又金銀貨の間に比価の変動もあつたりしたので銀塊の相場が行はれたのであるが、之を称して弗相場と謂つたものである。
元来相場なるものは実物を売買するので無く、景気を売買するのであるから、その道具に使はれるものは米と株とに限つたもので無い。品物は何んでも可いのである。依て株券の無い明治廿年頃には銀の如き価格に変動を生じ易いものが道具に使はれて、弗相場なるものが行はれたのである。私は相場を一切行らぬと決心して来たから、今日まで相場で拾円の金を儲けたことも無いが、又損した事も無い。然し、行り始めると却々面白いものださうで、容易に廃められぬとの事である。喜作が矢張廃められなかつたものと見え、米相場で既に多大の失敗を招き、随分他人にも迷惑を懸け居るに拘らず又懲り性もなく弗相場をはじめたのであるが、今度の失敗は米相場で失敗した時の如く生優しいもので無く、銀行に懸けた損害ばかりでも五十万円、その他にも猶ほ二十万円ばかりの借金があつたから合計七十万円といふ大損矢であつたのである。それが恰度明治二十年の事である。
私が喜作の招いた七十万円の借金を片付ける為に論語にある子路の意気を以て、毎年一万円づつ十二年間で合計十二万円だけ自分の金を出した際には、全く棄てる積であつたが、今日に相成つて見ればそれが不思議に廻り廻つて私の利益になつて居る。当主の義一が店主になる際、私が喜作の弗相場失敗跡片付の為に出金した斯の十二万円を、今俄に纏めて御返ししようとしてもそれは兎てもできぬことであるから、(キ)の財産やら暖簾やらは幾干ぐらゐになるものか、そこの処は判明せぬが、兎に角、十二万円に対する代償として(キ)の店の株を二分して、其の一半だけを差上げることに致したいから受取つて呉れとの事で、私も之を承諾し、(キ)の糸店を渋沢義一と私との共同経営に成る匿名組合とし、私は(キ)の店の株を半分持つ事になつたので、損をする時には其の損を半分受持たねばならぬ代り、利益があれば純益の半分が私に入るやうになつて居るのである。
再昨年欧洲戦争の起つた際には生糸の売行が悪くなり、一時糸の値段も非常に下つたので、地方の製糸家に卸して置いた資金が毫も回収せられて来ぬ為に、数十万円の貸越となり、或は喜作が明治二十年に弗相場で失敗した際の如き大損害を蒙るのでは無からうかと心配もしたが、一昨年来糸価が非常に昇騰し、地方の製糸家は孰れも大きな利益を見るようになつたので、貸越しになつて居つた製糸資金を悉く回収し得た上になほ(キ)の店は若干の利益をさへ揚げ得るやうになつたので、義一も私も共に悦んで居る次第である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)