8. 喜作洋行して小野組に入る
きさくようこうしておのぐみにはいる
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依て私は兎に角一度洋行して来るが可からうと勧め、又当人に於ても未だ一度も行つた事が無いから是非爾うして欲しいものだとの希望があつたところより、翌る明治五年、蚕業取調べの名目で伊太利へ留学仰付けられる事になつたのである。然し蚕業取調べは単に名目だけのことで、実際は欧洲の状況を視察するにあつたのだが、明治六年に帰朝して見れば、私は既に大蔵省を辞して民間に下り、又井上さんも辞職してしまはれてゐたので、栄一も井上さんも居らぬ知己の乏しい官界にあつたからとて、別に面白くも無い故、自分も官途を退きたいとの事であつたのである。之には私も同感であつたものだから、喜作は帰朝早々官を辞することになつたのであるが、私には当時既に銀行業に従事しようとの意志があつたので、喜作と私と同じ事を行るでもなからうと、私より喜作を小野組糸店の総管古河市兵衛の参謀に推薦したのである。然し不幸にも翌七年に至り小野組は破産して倒れてしまつたので、喜作も小野組を去らねばならぬやうになつたのである。
今度は独立で何か商売を営つて見たいといふのが喜作の希望であつたので、「そんなら、蚕糸と米とを営つて見るが可い。私も及ばずながら力を添へよう」と私は喜作に勧めたのである。私は米は最も広い商売で、日本中一人として米を食はぬものなく、米商売ならば発展しさへすればいくらでも大きくなれるものだと考へ、又蚕糸は国内のみならず将来大に外国よりの需要もあるものと思うたから、斯く喜作に勧めたのであるが、喜作も私の言を容れて米と蚕糸とを商売に致すことになつたのである。目下横浜にある(キ)糸店の濫觴は実に茲にあるのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)