デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一

5. 喜作幕府の祐筆となる

きさくばくふのゆうひつとなる

(22)-5

 江戸に出てから幕府の詮議が厳しくなつて来たので、京都へ参るやうになつた時も私と喜作とは素より一緒で、一橋家に仕へるやうになつた時も二人は猶且一緒であつた。そのうちに慶喜公が第十五代の征夷大将軍になられたところで、慶応三年正月十一日、私は水戸の民部公子の扈従を致して仏蘭西へ洋行する事になり、幕府の臣とならずに済んでしまつたのであるが、跡に残つた喜作は、慶喜公に御附き申して一橋家より幕府に入り、幕府に仕へて奥祐筆を勤めるまでに出世したのである。
 当時祐筆には役向きが二つあつて、一を表祐筆といひ、一を奥祐筆といつたものだが、表祐筆は昨今で申せば内閣書記官長の如きもので奥祐筆は文事秘書官長と法制局長官を兼ねたやうな要職に相当し、幕府の老中に対しては却々侮り難き勢力あり、老中たちよりは頗る煙がられたものである。斯くの如き次第で喜作は慶喜公に重用せられ、大に出世したのであるが、其うち慶応三年の暮と相成、慶喜公は大政を奉還せられ、王政復古の御一新といふ事になると共に伏見鳥羽の戦争が起つたので、喜作は幕軍に与みし、軍目付の役で伏見鳥羽の方面へ出陣したのである。
 ところが伏見鳥羽で幕軍が官軍を相手にして盛んに戦つてる間に、それまで大阪城に在らせれた慶喜公におかせられては忽然として大阪港より軍艦で江戸に脱け出られ、謹慎の意を表せらるる事になつたので、伏見鳥羽で戦つて居つた幕軍の連中はしばし呆気に取られて開いた口が塞がらず、何んとも仕様が無くなつてしまつたのであるが、喜作に於ては当時、慶喜公の御真意のあるところが解らず、猶且生命が惜しくなつて公は大阪から江戸へ逃げてしまはれたものとばかり思ひ込んだと見え、伏見鳥羽の戦場より窃かに直ぐ江戸へ出で、同志を糾合して官軍に抗する計画を起したのである。之には勿論喜作の性分たる投機的気分は大分手伝つたのである。

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キーワード
渋沢喜作, 徳川幕府, 祐筆
デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)