デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一

10. 十二年間一万円づつ出金

じゅうにねんかんいちまんえんずつしゅっきん

(22)-10

 喜作が明治二十年の弗相場失敗で七十万円の損失を招いた際に、銀行から借りて居つた金に対して、私は別に保証人になつてたのでも何んでも無い。第一銀行の横浜支店長を致して居つたものに、手抜かりな不注意があつた為めで、銀が外国商館に搬入されて預けられてあるものとのみ思ひ込み、之を抵当にして貸付けたところが、一旦破綻が暴露れて見ると、外国商館には銀が預けられて居つたのでも何でも無く、銀は既に喜作の手を離れてしまつたので貸付けた丈けが銀行の損害になつたのである。私としては其際保証人になつて居つたのでも何んでも無いから、其儘にして済ませば済まされぬでも無く、又銀行の方にも此際喜作を潰しても可いから取れる丈け取つて埓を明けようなぞとの意見も無いでは無かつたが、私と喜作とは幼少の頃より生死を共にして来た間柄でもあり、ムザ〳〵喜作の商売まで潰してしまうのも惜しい事だと私は思つたので、茲に子路の所謂「車馬衣軽裘、朋友と共に之を敝りて憾み無し」の気になつて、喜作が若し隠居して店を長男の作太郎に譲り一切家業に関係せぬといふ事ならば、私に於て喜作の失敗した跡を引受け、整理してやらうと申したのである。喜作も悦んで之に同意し、自分は隠居して店を譲り、家業には一切口出しも手出しも致さぬによつて、是非整理を私に依頼したいとの事であつたので、私は二十年計画で七十万円の借金を返済する案を立て、私より毎年一万円づゝ自分の金を持ち出し、之に糸店より年々揚る利益金の内より三万円なり五万円なりを加へて返済する事にしたのであるが、幸に喜作の隠居した跡を引継いだ長男の作太郎は全く父と異つた性質で、店を引受けた当時は漸く三十五歳であつたが、投機心も無く至極実着で、其上相応に才もあつたものだから、家業は日増しに繁昌し、二十年計画ではじめたものが二十年を要せず僅に十二年で七十万円の借金を総て皆済してしまつたのである。依て、私は十二年間に十二万円を喜作の跡仕末を致す為に借金したことになるのであるが、これで結局誰方様にも御迷惑を懸けずに済んだのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)