デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一

7. 喜作陸軍檻倉に入る

きさくりくぐんかんそうにはいる

(22)-7

 明治四十一年十月二十六日七十三歳で歿くなられた子爵の榎本武揚さんは、生つ粋の江戸つ子で、幕府の勘定役榎本園兵衛といふ方の次男で、初めお茶の水の聖堂に学び、それから嘉永六年長崎に遊学して和蘭人に就き蒸汽機関に関する学問やら航海術などを学んで、後暫らく幕府の海軍操練所教授を勤められ、和蘭に留学して更に海軍に関する研究を続けて居られるうち、偶々丁墺戦争の起るに会して其戦況を視察し、慶応二年帰朝せられて軍艦乗組頭取、唯今で申す艦長に任ぜられ、次いで海軍奉行に昇進し、大いに新知識を発揮して居られた処へ、慶応三年大政奉還といふ事になるや、奥州諸藩の士は之に反抗し榎本さんは軍艦の操縦もできるからといふので之を大将に推し立て、幕府の軍艦回陽丸に乗組み函館へ脱走する事になつたのである。当時榎本さんは北海道を日本本島から分離して一独立国を建立し、之を共和政治で治めてゆかうとの考へを持つて居られたとの事である。渋沢喜作は、この一隊に加はつて回陽丸に乗込み、函館五稜廓に立て籠る事になつたのであるが、同志のうちには沢太郎左衛門なぞいふ名士もあつたのである。
 榎本さんの軍は函館五稜廓に立て籠つてるうちに、一二度官軍と小さな戦もしたやうであるが、征討総督の参謀黒田清隆さんから、利害を説いて降伏を勧告したので、榎本さんも其気になつて勧告に応じ降伏する事となり、喜作は榎本さんと共に、官軍に降伏し、その結果、三年間陸軍の檻倉に入牢申付けられ、囹圄の人となつたのである。然し明治四年に至り赦されて愈よ出獄の事になるや、親類の者が誰か受取の為に来いといふので、私は其の時既に仏蘭西より帰朝し大蔵省に出仕して居つたものだから、私が喜作の親類として同人を受取に出頭し、伴れて帰つたのである。

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渋沢喜作, 陸軍檻倉
デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)