デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一

6. 喜作彰義隊を組織す

きさくしょうぎたいをそしきす

(22)-6

 この時に、喜作と共に斯の計画に参与したものが、私及び喜作に取つては漢学の師匠になる尾高惇忠で、尾高先生が参謀総長の格で、東叡山座主輪王寺宮を擁し、上野に立て籠り官軍と干戈を交ふる事になつたのであるが、彼の有名なる彰義隊は全く喜作が発頭人となつて組織したもので、「彰義隊」なる隊名は尾高先生が命名せられたのである。ところが、前条にも一寸申述べた如く、喜作には他人を凌がうとする気質があつたものだから、喜作は隊長であつても、兎角副長の天野八郎以下と合はず、加ふるに幕府譜代の臣であるといふのでも無く慶喜公に随従して幕府に入り、始めて幕臣になつたものであるなぞの関係もあつて、譜代出身側の隊員との折合を失ひ、遂に喜作は彰義隊より脱退し、新たに一隊を組織することになつたのである。
 喜作が彰義隊を退いた時には尾高惇忠も亦一緒に退き、これも尾高先生の命名した名だらうと思ふが、新たに喜作の組織した隊は「振武軍」と称せられ、武州西多摩郡田無に集合し、其処で旗揚をしたのである。当時、振武軍は世間から彰義隊の別働隊なるかの如くに目せられて居つたが、実は彰義隊中の旧幕臣側の分子と相容れなかつた連中が別れて新たに組織した全然別個独立の一隊であつたのである。振武軍は田無で旗揚をしてから漸次秩父方面に進軍し、同所に立て籠り、最後まで官軍に抗して之を悩ましてやらうと云ふ計画を立てたが、進軍の途中を偶々官軍たる芸州藩の兵に阻まれ、埼玉県飯能に於て官軍と戦ふ事になつたのである。素より衆寡敵し難く、加ふるに烏合の兵であつたから一戦忽ち振武軍の敗北と相成つたので、隊員はチリ〴〵バラ〳〵に潰乱してしまひ、尾高惇忠は其儘郷里血洗島に帰られたが喜作のみは逃れて私かに又再び江戸に出で、榎本武揚の軍に投じて幕府の軍艦回陽丸に乗じ函館に赴き、五稜廓に立て籠ることになつたのである。

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キーワード
渋沢喜作, 彰義隊, 組織
デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)