デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一

3. 三人三段の精神状態

さんにんさんだんのせいしんじょうたい

(22)-3

顔淵季路侍。子曰。盍各言爾志。子路曰。願車馬衣軽裘。与朋友共敝之而無憾。顔淵曰。願無伐善。無施労。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懐之。【公冶長第五】
(顔淵、季路侍す。子曰く、盍ぞ各爾の志を言はざる。子路曰く、願くは車馬衣軽裘、朋友と共にし、敝りて憾み無けん。顔淵曰く、願くは善に伐こと無く労を施すこと無けん。子路曰く、願くは子の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。)
 茲に掲げた章句は、御弟子の顔淵と、仲氏の季つ子なるが故に「季路」とも称せられた子路とが、孔夫子の御座所に侍して居つた際に、孔夫子が「各自勝手に自分の志を述べて試るが可い」と仰せられたので、之に対し顔淵、子路両人の答へたところと、次で孔夫子が御自分の志を談られたところとを叙したものであるが、子路が孔夫子よりの御尋ねあるや、言下に其声に応じ、卒爾として威勢よく談り出でた辺は、其間に如何にも子路の子路たる元気の佳いところを彷彿たらしめて居る。子路の言にある「衣」とは絹の衣服、「軽裘」とは狐の毛皮で調製した衣類のことで、「衣」も「軽裘」も共に上等衣服であるが互に相容した朋友と之を共にする事ならば、一つの車に二人乗り、一匹の馬に二人跨り、一枚の上等な衣を二枚に割いて着、之をボロボロにしたからとて敢て憾むるところは無い――何うぞ斯ういふ朋友を得て、苦楽を共にしながら一生を送りたいものだ、といふのが、子路の志であつたのである。子路の真摯なる温情は実に能く斯言の中に流露して居るでは無いか。
 顔淵に至つては、仙人らしい哲学者肌の人であつたものだから、哲学者らしく仙人らしく、「自分は他人に善を施しても善を施したやうな顔をせず、又自分でできる事ならば何んでも労を厭はず自分で之を自らし、他人に労を押しつけるやうな事を仕度無いといふのが、自分の志である」と申述べたのである。顔淵の志には、子路の志に比ぶれば、深遠な内省的な処がある。然し、孔夫子の御志に至つては、全く図抜けた大きなところがあつて、大人の大人たるところが顕れ、「老者に対しては之に安心を与へて悠乎致させるやうにし、朋友とは信じて相交り、若い者は可愛がつて懐け導くやうに致したいものだ」と談られたのである。
 子路、顔淵、孔夫子――この三人の志を斯く並べて置いて観ると、其処には三段に段がついているかの如くに思はれる。子路の志は通俗的で低く、顔淵の志には更に進んだ高尚なところもあるが、ユツクリした包容的な趣が無い。孔夫子の御志に至つては、海の如く広く有らゆる人に対するに仁を以てするといふ包容的なところが顕れて居る。

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デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.142-149
底本の記事タイトル:二三二 竜門雑誌 第三四六号 大正六年三月 : 実験論語処世談(二二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第346号(竜門社, 1917.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第2,3号(実業之世界社, 1917.01.15,02.01)